woody banjo
夢遊病者のように日々を送り、気がつくと、時がフラッシュのように過ぎ去っていきます。毎日が机に向かう生活が日課になり、すでに3ヶ月近くがたとうとしています。
運動不足、酸素不足から、食欲不足に陥り、それでも、書く(打つ)という仕事は、ほぼ順調に進んでいます。前回更新したときにお知らせしましたように、アパラチアン・トレイル本にとりかかり、文中では、全行程3500キロのうち、ほぼ3000キロ弱を歩いています。あと600キロほど。手の届く距離になりました。とはいえ、新幹線で言えば、東京から大阪ほどの距離が、まだ残っているということになります。
.jpg)
Woody Banjo made by Bill Neely in Virginia
この3ヶ月、再び、アパラチアンの世界にどっぷりとつかり、取材するなかで、その文化の奥行きの深さにはまり込み、とりわけ興味を深くしたアパラチアンミュージックの世界を再び思い起こし、懐かしさが強烈に蘇ってきてしまいました。その取材のなかで知り合いインタビューをし、バックパッカーズ・ギターを作ってもらったビル・ニーリーというミュージック・インストルメンツ製作者がいます。
今回、書くなかで、その芸術性溢れるギターと音色が頭から離れずに、ついにまた、彼にバンジョーの製作を依頼してしまいました。バンジョーといえば、革張りが一般的。ところが彼の作るバンジョーは木製バンジョーです。
トップがシトカ・スプルース。フィンガーボードがウォールナット。ボディーがカーリー・メイプル。そして、ヘッドがローズウッドという選りに選った素材を使ったバンジョー。木製であるがゆえに、音色はバンジョーではあっても、とてもマイルド。そのバンジョーが、つい先日届きました。
残念ながら、まだ原稿書きに追われ、存分にプレイを楽しむことができず、ただ、涎をながしながら、眺めているだけですが、寝かせておくだけではもったいないと思い、ここに、みなさんに、自慢もこめて、お披露目させていただきます。そして、なまけものブロガーとしても、ちょっと肩の荷がおりるというわけです。
というわけで、また、本書きにもどります。
もう、一年!

年の端を重ね、重ねるごとに、年の渡りの速さに身がすくむ思いがします。そうです、早くも一年がたってしまったのです。
わたしにとってのこの一年は、特別な一年でした。昨年アパラチアン・トレイルを出発したのが4月3日。187日を経て、無事、夢のマウント・カタディンに到達したのが去年の今日。10月6日だったのです。あまりにもアパラチアン・トレイルでの日々の記憶が生々しく、この一年、とりわけ今年の4月3日からの日々は、常に昨年のその日その日の出来事との重ね合わせの生活でした。
こうして一年たち、あらためて思い返したとき、お世話になった皆様方への感謝の気持ちが心からにじみ出てきます。
去年帰国してから、たちまちに遠ざかってしまったこのブログレポートを、再び活性化させようとこの春に始めた「去年のきょう」などという、アパラチアン・トレイルの記憶と重ねてつづるシリーズも、結局は頓挫してしまいました。情けないかぎりです。
それより何より、ぼくがせねばならないことがあります。アパラチアン・トレイルの重すぎるほどにぼくの中に蓄積されている記録と思いを、本という形でまとめることです。来年の夏までにはなんとかと思いつつ、
日々の生活に追われ、まだその端緒についたばかりです。その本への思いは、日々募り、ぼくのなかのアパラチアン・トレイルはまだ生き生きと息づいています。
ぼくの中では、次なる夢もまた膨らんでいます。が、アパラチアン・トレイルの経験から派生するものの大きさを、最近、とみに強くしています。たとえば先日行なった青山学院大学の英米文学専攻の学生たちへの講演でのことです。300人を越える学生たちのそのほとんどはアウトドアには特に興味はなく、自然とのかかわりある生活を送っている人も、わずかしかいなかったのにもかかわらず、講演の後の彼らの反応の大きさに、ぼくは強く勇気づけられたのです。彼ら(大部分は彼女ら)が提出したレポートから、そのほぼことごとくの学生が、実は、自然や社会や、かかわりのあり方にいかに心をいたし、自らの果たす役割を考えているのだということが、言葉の端々から伝わってきたのです。そして、ぼくの話によって、自分がなにができ、なにをすべきかという道の端緒がわかったような気がすると書いてくれた学生の多かったこと。
あまりにもすさんだ今の社会にあって、若い彼らの豊かな感性と真摯な生きる姿勢を知り、深く感動しました。若い学生さんたちへ、心からの愛おしさを覚えました。
年を経た今、たとえわずかであっても、経験によって蓄積された人にとって大切なものがあるならば、これからも若い人たちに伝えていければいけないと、あらためて強く感じさせられました。
去年のきょう(6.3.2005) in Virginia
Pink & Blue Flower Anthology

Blue Ridge を歩くあいだじゅう、こんな可愛いMountain Laurel(山月桂樹)の花が、ぼくの恋心を充たしてくれた
Blue Ridge Mountains という音に聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。ブルーリッジ山脈は、複数の山脈で構成されるアパラチア山脈のなかでも最も大きく、最も有名な山脈です。映画「コールド・マウンテン」の村は、じつはノースカロライナ州のブルーリッジ山脈の山麓にあるのです。この山脈の山稜部に600キロほとのBlue Ridge Parkwayというハイウエーが走っています。北はシェナンドア国立公園と南はグレートスモーキー・マウンテン国立公園とを結ぶ観光道路です。アパラチアン・トレイルはDalevilleを出発し、しばらくすると、この山脈に登ります。そして、約150キロにわたって、このパークウエイと何度も交差しながら北上し、前回書いたシェナンドア国立公園に入っていきます。
この季節、わたしが最も期待していたことがあります。それはMountain Laurel の花でした。テネシー州を歩くころからこの花の季節が始まっていたのですが、ちょうどブルーリッジを歩くことが満開になっていました。ぼくは以前からこの花が好きで、ほとんど恋をしながら、その写真を撮って撮ってとりまくりながら歩きました。
前回が臭い写真だったので、きょうは、去年のきょう前後にトレイルでであった花たちのなかから、ピンク、ブルー系の花のアンソロジーをお贈りしましょう。

あうたびに、誘われるように撮ってしまいます

クローズアップすると、こんなに可愛い

とりわけ、このコンペー糖のような蕾がたまらなく好き

Catauba Rhododendron(カタウバ石楠花)。この花が作る花街道も、ぼくの心を潤してくれた

そのクローズアップ

Hairy Beard Tangue。ひげもじゃの舌、という名のキンギョソウの仲間
.jpg)
Blue Eyed Grassという名の、アヤメの仲間

Wild Pink。ナデシコの仲間
.jpg)
Moss Phlox。直訳すると、コケキョウチクトウ

Spiderwort(ムラサキツユクサ)。色のバリエーションが多く、ピンクから白まで、さまざまあった

そのクローズアップ

Pink Lady's Slipper。日本のアツモリソウ。アメリカでも高価で売買されている。珍しいといわれるYellow Lady's Slipperも、この10日ほど前に見つけた

White Trillium。白エンレイソウだのに、この色。じつは、変種。アパラチアンを歩く間、6種類のエンレイソウを見つけた
去年のきょう(5.30.2005) in Virginia
臭い話
アメリカでは、昨日がMemorial day でした。この日は、南北戦争で命を落とした人々を追悼することからはじまった行事で、日本語では「戦没者追悼記念日」と訳されています。毎年、5月の最終月曜日が追悼するための祝日となっています。
去年のこの日ぼくは、Virginia州のDaleville という町にいました。ここで予定外の3泊することになったのです。その理由は、Memorial day。ご存知のように、ぼくは食料や必要な装備を前もって山麓の町に郵送しています。このDaleville にも送ってあったのです。ところが、なんとこの町に到着したのが土曜日(28日)の午後。月曜日がMemorial day の休日ということで、郵便を受け取れるのは火曜日の31日ということだったのです。この祝日については、前もって知っていました。ですから、ゆっくり歩いて日曜日にこの町に下り、2泊するつもりでした。にもかかわらず、どうしても足が止まらなく、予定より一日早くついてしまったのです。
食料や装備は、Georgia のスタート地点近くのDahlonega に住む友人のJoeの家に預けておき、適宜送ってもらうという方法をとっていました。Daleville には食料の他に、今回最も大切なものを送ってもらっていました。靴です。履いていた靴が800キロ付近から穴があいてしまいました。ここDaleville は約1140キロ地点です。穴があいたまま、300キロ以上歩き続けたことになります。
.jpg)
1100キロ以上も歩いてくれた友に感謝。Daleville 到着の前日に撮影
ここで交換した靴も、やがて穴があき、結局、今回のアパラチアン・トレイル3500キロを歩く間、3足の靴にお世話になったことになります。それぞれの靴で、1000キロ以上歩いたことになります。
3足もと思うかもしれませんが、考えてみてください。一足の登山靴で1000キロ以上歩くなんてこと、ふつうではありえないことではないでしょうか。日本と同じように雨が多く、湿潤な気候の中、これだけの距離を歩いたということです。
ただ、きつかったのは、後半、死ぬほど臭かったこと。その靴と別れるとき、「よくがんばってくれたなぁ」と、思わず頬づりして、気絶するところでした。
ちなみに、靴はThe North Face のFortless Peak GTX です。

こんな時もありました。ご苦労さん!

歩きはじめて10日めのFortless Peak GTX
去年のきょう(5.26.2005) in Virginia
.jpg)
Dragon tooth(竜の歯) の名のとおり、山頂は巨岩がにょきにょきと天をつき、まるで妙義山のようだった。夕日に染まるオレンジ色の歯が迫力を増した
去年のきょう、歩いた距離は久しぶりに30キロを超えました。ジャーナルを見ると、
at Dragon tooth camp 一日快晴。19.4mile=31.4km。という記述。
ジョージア州スプリンガーマウンテンを4月3日に出発して53日目。総距離にして686.3mile = 1098.08km歩いたことになります。そう、去年のきょうの数日前に1000キロを超えていたのです。
アパラチアン・トレイルは小さな山脈の重なりでできています。このエリアは、そのいくつもの山脈を渡り歩くようにトレイルが延びています。この日のジャーナルにはこう書いてありました。
「きょうは、Sinking から Audi、そしてDragon toothと山脈を3つはしご。昨日から、こういった感じで、山脈から山脈へと渡り歩いている。そして、山稜に出ると、歩いたそれぞれの山脈が見渡せる。このあたりは典型的な褶曲山脈なのだろう。
Dragon toothに入ってから、あまりにも繰り返すアップダウンに腹がたつほどだった。けっこう辛かったが、Dragon tooth でキャンプしたことは大成功だった」
山脈を乗り越えるという意味ではなく、ひとつの山脈の山稜に出て、そこを数十キロずつ縦走し、麓に下り、次の山脈に登って縦走するということです。だから、激しいアップダウンの連続なのです。
この日は、一日快晴。激しいアップダウンに苦しんだことと、一日中快晴だったことで、尾根からの眺望を楽しみながら歩いたことを思い出します。
この日、Dragon toothという名の山頂でキャンプしました。水がなくテントが張れるスペースがあるかどうか心配だったのですが、すばらしい天気だったので、日の入りと日の出を撮影する目的でキャンプしようと、ここに登る前に決めていました。麓の湧水でキャンプに足る水を汲み、持ち運んだのです。その日の出の様子は、去年の5月31日付けでアップしています。きょうは、さらに数枚ご紹介しましょう。

オレンジ色の巨岩に浮かぶ自分のシルエットが、なんだか先住民の描いた絵のようだった

翌朝、コーヒー片手に巨岩に登り、日の出を待った。知らん振りしているけれど、けっこう、危険な状態なのだ

その日、8時間後に超える予定のTinker Cliff 山頂に日は昇った

ドラゴンの歯の隙間からのぞく日の出
去年のきょう(5.23.2005) in Virginia
まず、4月19日にアップした「リニューアルしました」をご覧ください。
その内容は、それまで使っていたトップ写真を変更した旨のご案内と、新しい写真と同じ場所、同じ時刻に撮影した数枚の写真をアップしたものでした。
それまでのトップ写真は1995年にジョン・ミューア・トレイルのGarnet Lakeで撮影したものでした。新しい写真はアパラチアン・トレイルのヴァージニア州、Rice Field という場所で撮影した、セルフポートレートです。この写真がセルフポートレートだということを、何人ものプロのカメラマンが認めません。「ありえない」「絶対、こっそりだれかプロのカメラマンを連れて行ったに違いない」などと、星野秀樹カメラマンが、これを見るたびに冗談を言うほどに、自分自身でも、完璧な写真だと思っているのです。アパラチアン・トレイルで撮った写真は1万枚をはるかにこえているのですが、撮影したときに「よし、これは完璧だ」、と思った写真は数えるほどです。トップ写真は、その一枚。
.jpg)
雷雨直前のこの一連の光は、6ヶ月間歩いたなかでも、ピカイチだった
そして、きょう、このテーマで書いたのは、実は、これが、去年のきょう=5月23日に撮影されたものだからです。光、ポーズ、アングル、どれをとってもすばらしいと、自画自賛しています。
ただ、残念なのは、ブログで使うためには、極端にサイズを小さくせねばならず、そのぶん、画質が大幅に落ちることです。
それにしても、セルフで撮った写真を見るたびに、自分自身、そのときの情景を思い浮かべ、可笑しくなります。
去年のきょう(5.19.2005) in Virginia
もう、日付は20日になってしまったのですが、去年の5月19日は、どこを歩いていたのかなとジャーナルを見てみると、そうだ、あの出来事があった日だったと、感慨が新たになりました。昨年アパラチアン・トレイルを歩きながら書き記したこのブログの、6月11日にアップした記事をご覧いただけますでしょうか。さらに、現在連載中の「山と渓谷」4月号にも、このストーリーが載っています。可能な方は、ご覧ください。
きょうは、そのトレイルマジック・ストーリーを補足する数枚の写真データを紹介することにしました。

峠に下りていくと林道に2台のピックアップトラックが停まっていた。初老の男性に声をかけられた。「下の村まで行かないかい?」

あとから来たクリケットとメイフライとともに、ピックアップトラックに乗り込んだ。クリケットは、「なんだか、人さらいみたいだ」と笑った

連れていかれたのは、この教会だった

教会の地下室でぼくたちを待っていたのは・・・・!

フリーズドライに明け暮れるハイカーは、こんな料理が出されたら、お手上げだ

そして、こんなデザートが出された日には・・・・

バックグラウンドに流れる曲は、ぼくの大好きなウィリー・ネルソンだった
去年のきょう(5.17.2005)
昨年歩いたアパラチアン・トレイルの熱い思いが、日を追うごとに募ってきます。「去年の今日はどこを歩いていたんだろう」と、写真データを見ると、その日その日のほぼことごとくの記憶が蘇ってきます。187日間という日数をかけて歩いた日々の、その一日一日の記憶がこれだけ鮮明に蘇ってくるということを思っても、いかにぼくのなかのアパラチアン・トレイルが特別のものだったかが、あらためてわかります。
そして、ふと思ったのです。せっかくのブログを持っているのだから、「昨年のきょう」の何枚かの思い出写真を、これからアップしていったらいいじゃないか、と。なにしろ、これまで雑誌で紹介した写真にしても、何度も行われたトーク&スライドショーで使った写真にしても、1万5000枚ほども撮った写真のなかの、ほんのちょびっとだけなのです。
それだったら、4月3日にジョージア州をスタートしたその日から始めればよかったと、今、ちょっと後悔しています。
ということで、きょうからできるだけまめに、そのときどきの日誌を添えながら、写真館「アパラチアン・トレイル2005」を開館します。
5.17.2005VA(from Atkins to Rick Creek 27.04km)
昨年のきょうは、ヴァージニア州に入って、それまでで最も魅力的な牧草歩きの日だでした。この日歩いた距離は27.04km。

リンゴの花の香りが風景をさらに和ましてくれる。典型的な南部の牧場風景

リンゴの花って、こんなに可愛い

そうだった。この日はじめてPeanutに会った。同行の彼とは途中で別れたという。Peanutとは、この後、運命とも思えるほどに、何十回と出会いながら、互いにカタディンを目指し歩いた。?そして、10月6日ぼくのカタディン到達の前日、彼女も無事到達したのだ

「原生自然もいいが、人と自然がかかわることによってできた、このような人間の匂いの残る自然も、またいいものだ。どうして、これほどに牧草地の風景が心を引くのだろうか。牧場を、故郷の牧場を歌った歌がアメリカには多い。それらを、口ずさみながら歩く。「峠の我が家」「ケンタッキー・ホーム」「牧場の朝」。今、アメリカのエスタブリッシュたちが、リタイアー後、牧場のある家に住みたがる気持ちは、よくわかる」

「そうだ、きょうはもうひとつ、トピック。ついに、石楠花に出会えた。標高800から900m付近の石楠花が20パーセントほど咲き、その中を浮き浮きと歩く」
リニューアルしました
ご案内が遅くなりましたが、すでにおわかりのように、先々月からこのブログのURLが変わりました。しばらくは古いURLにアクセスすると、新URL(www.j-trek.jp/kato)にジャンプするようになっていますが、お早めに変更保存してくださるよう、お願いいたします。
ご覧いただいているように、きょう、トップ写真をアパラチアン・トレイルの写真に切り替えました。今までは、ジョン・ミューア・トレイルの象徴的な写真を使っていましたが、これからはこのイメージになります。これもまた、ぼくにとってアパラチアン・トレイルの象徴写真の一枚です。
場所はヴァージニア州。2005年5月23日午後6時20分ころの撮影です。この日は、この草原のすぐ脇にテントを張って夕食の準備をしていたところ、突然空が掻き曇り、すさまじい雷雨がやってきました。その直前、雷雲の隙間からSun shower が草原に注ぎ、そのあまりにも美しい光に、あわてて三脚を立てて撮ったセルフポートレートです。
かなりの数のシャッターを切った、そのうちの何枚かをここにご紹介します。

暗雲の下、一瞬射した光の中を延びるアパラチアン・トレイル
.jpg)
行くか,留まるか、迷うショートハイカー
.jpg)
天気急変に怯える山並み

雷雨から逃げるように歩くアパラチアン・ハイカー
2000miler ワッペン到着1


ご無沙汰しています。
帰国後、早くも2ヶ月がたちました。原稿書きやら講演やらと、帰国後忙しい日々を送っていましたが、昨日、日本トレッキング協会への報告会が終わり、きょうビーパル2月号の原稿をあげ、残りはノースフェース春夏用カタログの原稿を書けば、年内の仕事はひと段落です。
今発売中のビーパル新年号にも出ています。山と渓谷本誌では、発売中の新年号から見開きの連載がはじまりました。
カタディン到達後、アパラチアン・トレイル委員会(この夏から協議会から委員会に名称変更になりました)へ申請していた到達報告が認められ、一昨日、認定書とワッペンが到着しました。
達成感をあらためてかみしめています。
来年は、手元にあるアパラチアン・トレイルの膨大な資料の整理と分析をし、それを書籍にまとめるための一年間になりそうです。
楽しみにしていてください。
ありがとうございました
はじめに、お知らせをふたつ。
(1)先日、ベイFM番組「フリントストーン」でアパラチアン・トレイル踏破の報告を収録をしました。たいへん急ですが、明後日、11月6日(日)午後11時からの放送です。お時間がありましたら、聴いてみてください。
(2)11月23日(祝)にThe North Face と A&F共同主催による「アパラチアン・トレイル3500km踏破の記録」スライド&トークショーが行われます。参加申し込み等の詳細は、それぞれのホームページでご確認ください。お越しを待ちしております。

Mt.Katahdin from Abol bridge(10/3)
10月6日に無事マウント・カタディンに到達しました。みなさまのご声援を心より感謝もうしあげます。
到達の二日後に、なんとかその模様をお伝えすることができましたが、その前、一ヶ月あまりにわたって、インターネット環境がまったく整わなかったため、9月2日を最後にカタディン到達までのご報告ができないでいました。
その9月2日という日は、ご存知のハリケーン・カタリナの影響で、町で待機していたときのものでしたが、じつは、それ以後が、わたしの心にとって、より大きな感動の連続のエリアだったのです。14の州にまたがるアパラチアン・トレイルの13個めの州がニューハンプシャーです。最後に原稿を送った9月2日以降、それまで約2900キロほどの距離を歩いてきたアパラチアン・トレイルがはじめて、このニューハンプシャー州で森林帯を抜け出し、ハイアルパインの世界に入ったのです。ただひたすら、もくもくと森林帯を歩いてきたハイカーたちにとって、その風景の展開は感動の瞬間でした。

Avery Peak(9/19)
そこから最後のメイン州に入り、カタディンに至るまでの600キロほどにわたって展開される風景の荘厳さ、そのなかを歩く心の高揚感をお伝えできなかったことが、わたしにとってある種のストレスにさえなっていました。それほどにこのエリアがわたしたちに与えてくれたインパクトは大きかったのです。森林限界をはじめて越えたとき、それまでの2900キロにわたる苦闘を想い、多くのハイカーたちの心に熱いものが流れました。
それはまた、最後の州メインに入ったときも同じでした。「Welcome to Maine 」のサインを見たとき、とうとう最後の州にたどりついたのだという思いが、彼らの感動を誘いました。その姿を見たとき、わたしにもまた、熱いものがこみあげてきました。
わたしの感動は、自分自身がなしとげようとしていることに対する思い以上に、このとてつもなく長い距離と日数とのなかで、心を分かち合ってきたハイカーたちへの賞賛の気持ちと、彼らと、あるいはわたしたちを支えてくれたすべての人々への感謝の気持ちによるものだったのです。
カタディン到達から10日めに帰国しました。到達したその日からつい数日前までの2週間ほど、わたしの身体は異常なほどの疲れに襲われ、帰国以来、しばらく休養していました。20キロ弱の荷物を一日10時間、6ヶ月にわたって背負って歩いた異常な行動によって、身体のバランスが完全に崩れてしまっていたのです。脚の筋肉は20パーセント増しになり、ストックワークを続けてきたことによる腕と胸の筋肉も、何人もの人に「ひとまわり大きくなったみたい」と言われるほど、はっきりと増強されています。それらの筋肉をほぐし、血流をよくすることが当面の課題のようです。
ニューハンプシャー州、メイン州と、お届けできなかったすばらしい風景写真の何枚かをここでお届けします。
Old Spec Mtn.(9/11)

East Peak of Baldpate Mtn(9/11)

Perham Stream area(9/16)

Saddleback Mtn area(9/16)

North Branch of Carrying Place Stream(9/20)

to Moxie Bald Mtn(9/22)

Joe-Mary Pond area(9/30)

Antlers Campsite at Joe-Mary Pond(10/1)

Pollywog Stream(10/2)

Rainbow Lake(10/3)

Rainbow Ledge(10/3)
アパラチアン・トレイルを完遂した記録をまとめ、来年になるか再来年になるかわかりませんが、本にするつもりです。あまりにも内容の濃かったトレイル歩きだっただけに、いかに取捨選択し、じょうずにまとめるかが、これからのわたしの一番大きな課題です。
最後に、今回の旅をさまざまな形でサポートしてくださったスポンサーの方々に心より、お礼申し上げます。あリがとうございました。
装備に関しては、いかに荷重を軽くするかが大きなテーマでした。このトレイルを歩くすべてのハイカーにとって、それが成功するか失敗するかを決めるほどに重要な問題だったのです。
お世話になった装備をおおまかにご報告しますと、
l 衣類一式・靴・スリーピングバック The North Face(ゴールドウイン)
l バックパック Gregory(A&F)
l テント類一式 ICI 石井
l キッチンセット(コッヘル等) EPI(ユニバーサルトレーディング)
l クッキングコンロ等 MSR(モチヅキ)
l カメラ類 PENTAX ・
l 時計 CASIO
l フィルター付きウォーターボトル Seychelle
l アミノヴァリュー等サプリメント 大塚製薬
こまごまとした装備報告は、雑誌やいずれ書く本のなかで紹介します。
上記のすべてが、今回の成功をあらゆる面から十二分に支えてくれました。
半年にわたるアパラチアン・トレイルの旅が終わりました。わたしにとっては、これからそれをさまざまな形で表現していく仕事がはじまります。
最後に、わたしの旅に興味を持っていただいた皆さまに、心より感謝もうしあげます。ありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくおねがいもうしあげます。
I made it !! 達成!

3500キロ、達成!

We made it to the Katahdin !!
ついにそのときが来た。10月5日、アパラチアン・トレイル3500キロの最終地点Mt. Katahdin のあるMaine州Baxster state park に入る。期待をはるかに超えるあでやかな錦秋に染め上がった森を歩く。あと2日で夢が達成する。Georgia 州のSpringer Mtn. を出発して6ヶ月と2日目。
残された距離は24キロ。あまりにも長かった距離への思いをかみしめ、興奮と感動がこみ上げてくる。一歩一歩をたいせつにたいせつに歩く。
最終達成日を、アパラチアンハイカーは「Biggest day」と表現する。ぼくのそれは翌日の6日。
じつはこの5日、Mt. Katahdin の麓にある最終キャンプ地、Katahdin Stream Campground で、妻の奈美がぼくを待っている。さらにカナダのカルガリーからは、友人のチャコ&タイチ夫妻とその友人のマサもはるばると車でやってきて、待っている。10月5日はぼくにとって、「Second Biggest day」となった。
午後1時、感動の対面。そして紅葉の完璧な舞台化粧の中で、心なごむ最終キャンプをした。
10月6日。晴れ。Maine 州に入ってから、ずっとこの天気を待ち望んでいた。アメリカ最北部にあるこの州最高峰のMt.Katahdin は厳しい山なのだ。10月に入れば、当然、雪になる可能性が高い。気候が厳しければ、たとえ麓まで到達したとしても、Katahdin 登山は禁止になる。そして、この州立公園は毎年、10月15日には閉鎖になる。
朝8時。幸運に感謝し、妻と友人たちとともにフィナーレに向けて出発。残された距離はあと9キロ弱。充実感とともに、この日が近づくにつれ、日に日に膨らんできた寂しさが一層、増す。ハイカーズ・ハイというやつなのだろうか。
厳しい急登が続く。すべてのスルーハイカーは、前日まで背負っていた重いバックパックを、麓のレンジャーステーションに置き、デイパックで登る。重く大きなバックパックを背負ってはとても登りきれない岩場の連続なのだ。
午後0時2分、ついにやった。 I made it !! 長かった、苦しかった。でも、楽しかった。
山頂での驚きは、その後、続々とスルーハイカーがやってきたことだった。この日だけで20人ほどのスルーハイカーが3500キロの距離を歩ききり、夢を達成した。天気予報によると、この日を最後に天気は急変し、向こう一週間は雨が続く。ということは、Katahdinは、たぶん雪になるだろう。だから、多くのハイカーは、自らのペースを調整し、なんとかそれ以前に到達しようと、この日に集中したのだ。
感動のドラマが、山頂で溢れかえる。3500キロ、そして5ヶ月、6ヶ月と長い長い間、同じ目的を持ち、心を分かち合いながら歩いた仲間たちが、互いにたたえあい、抱擁し、雄叫びを上げ、おそらく人生最良の笑顔を振りまいている。
ぼく自身の笑顔も、きっと、そんな笑顔に違いない。支えあい、助け合い、辛さも喜びも分かち合ってきた仲間たちと、ぼくも次々と抱擁する。彼らの偉業が、ぼくの感動をさらにいや増す。

Hug with "Cucumber"

Hug with Scholar

Hug with Getty-Lee

Hug with Moon shine
アパラチアン・トレイルは、ぼくにとって、世界で最も優れたトレイルのひとつになった。自然美という点から見れば、より優れたトレイルは、世界にいくらでもある。でも、アパラチアン・トレイルは、ウイルダネスを愛するぼくを、まったく別の意味でとりこにした。このトレイルのすばらしさは、ハイカーたちとの交流、そして、彼らを支えるヴォランティア組織の充実。さらにアパラチア山脈をとりまく文化と歴史の面白さ。
アパラチアン・トレイルのキーワードは「Social」そして「share」。だろう。他のトレイルではとうてい味わうことのできない、さまざまな人間の模様を学んだ半年間だった。
10月7日、アパラチアン・トレイル最終地点のトレイルヘッドにある町Millinocket でこれを書いています。この一ヶ月ほど、インターネット環境が整わず、なにも報告することができないでいました。きょう、達成の報告を、お届けしましたが、それ以前の一ヶ月にわたるぼくの感動の記録は、帰国後、なるべく早い時期に報告したいと思っています。帰国は10月16日になる予定です。
長い間、お付き合いいただき、ありがとうございました。今後の報告もご期待ください。
また、時間がない関係上、今回は、iBepalと同じ原稿ということにしました。どうぞ、ご容赦ください。
一歩一歩の偉大さをかみしめて歩く

ハノーバーはダートマス大学がある、ぼくの憧れのカレッジタウンだったのに・・・
ニューハンプシャー州を歩いている。アパラチアン・トレイルのこれまでのエリアとはまったくイメージの違う山なみが続いている。が、いま、ご存知のハリケーン・Katarinaの影響で街に降り、待機しながら、この原稿を書いている。ハリケーンを直接受けたわけではないのだが、その影響で5日前から激しい風雨に襲われ何人ものハイカーがこの街に降り待機している。というのも、このあたりの山は、アパラチアン・トレイルではじめて、森林限界を超える。何日もハイアルパインの尾根の激しいアップダウンを歩く。天候に最も気を使うべき場所なのだ。夏でもあたりまえのように雪が降る。もう9月だ。天気が急変することも、あたりまえのようにある。昨年も、この4日後に越えるMt. Washington で一人のハイカーが遭難した。この山は1921年に記録した風速が世界一となり、その記録をまだ維持している。
前回も書いたように、こうして、たまにしか書くことができず、しかも、ほんのわずかな時間しかないので、あまりにもたくさんの出来事のほんの一端をお届けすることしかできない。残念だ。
一週間前、風邪をひいた。熱がでて、腹痛、胃痛、頭痛、それに膝の痛さがひどくなり、ハノーバーという町のホテルで、2泊3日、まるまるベッドの中で静養した。ハノーバーはぼくの最も憧れていた街だった。ダートマス大学というアメリカのアイビーリーグのひとつとして有名な名門大学を核としたカレッジタウンだ。イギリス風の伝統的な町並みと大学のキャンパスが一体となった美しい街で、かつ、ATハイカーにとって魅力いっぱいのカフェやレストランが建ち並ぶ、幸せの街だったのだ。にもかかわらず、ぼくはベッドで過ごした。ひどい体調で、食欲もまるでなかった。体力をつけるためと、ちょっと食べただけでも、ひどい胃痛にみまわれた。
じつは20日ほど前にも、医者に診てもらうというハプニングがあった。コネチカット州のサルスベリーという街だった。その2日ほど前から異常に膝が痛んだ。下りなど、数歩下ってしゃがみこむといった感じだった。疲れかたも、異常だった。それで、休養するために街に降りた。背中にかゆみがあったので、ホテルの鏡で見て、唖然とした。背中いっぱいに赤い発疹ができている。
まさに、このコネチカット州で発見された病気がある。ライム病という、シカを媒介としたダニによる病気だ。症状としては、背中やお腹に赤い発疹ができ、発熱、悪寒、それに間接の痛みがひどくなる。すでに、何人ものハイカーがその病気にかかり、入院しているという情報を得ていた。まさに、それだと想った。もうスルーハイクの夢はダメかとさえ本気に考えた。悔しくて、その晩は眠れなかった。
翌日、医者に診てもらった。診るなり、ライム病ではないと診断された。ただの汗や熱による発疹だと言われた。飛び上がるほど嬉しかった。よかった!
膝の痛みは一進一退だ。よくなったり、悪くなったり。今は、いい。痛みをなんとかごまかしながら歩く要領も得た。

ぼく以外はみな、20代後半のスルーハイカー。ぼくの長男と同年代だ。楽しかったなぁ(マサチューセッツ州ダルトン)

宗教的意味合いはない、と思う
到達点まであと600キロを切った。東京を起点に考えれば、京都を通過したくらいだ。一日に歩く距離は、短くて20キロほど。長いときは30キロを越えている。その数十キロという距離が、しだいにイメージのなかで大きくなってきている。一歩一歩の偉大さを感じる。指折り数えられる距離になってきた。一歩一歩の感動も大きくなってきている。緊張感にも近い感覚が、日々増している。到達が楽しみでもあり、寂しくもある。
あと一週間ほどで最後のメイン州に入る。Mt.Katahdin 到達は10月6日の予定だ。
が、残念ながら、それまでのさらに積み重なるはずの体験をお届けすることが、いよいよできなくなる。これから後、メインに入ってから下りるいくつかのすべての街で、インターネット環境が期待できないからだ。
夢達成の報告は到達の2日後くらいに、お届けできると思う。ただ、できるだけブログページの左にある地図の更新だけはするつもりだ。それを時々チェックすれば、今どのあたりを歩いているかが、わかるはずだ。
前回、iBepalにニューヨークに下りた話を書いた。ずっとスロット不良でダウンロードができなかった写真の一部と最近の写真をきょうお届けする。
明日から、厳しい山歩きになる。これまで一日25キロ以上歩くことがあたりまえのようにできていたが、明日からはせいぜい20キロまでだろう。これまでの風景とはまったくちがった展望になる。それらをお見せできないのは残念だが、帰国後に、なんらかの方法でお届けできればと思う。1年後くらいには書籍として出版できるだろう。

アパラチアン・トレイルでこんな出会いがあるとは・・・。ニューヨークでお世話になったスニッカー&カレン

ウーパー・ゴールドバーグもびっくり!
ニュースがある。清水さんは8月20日に、斉藤さんは24日に、それぞれスルーハイクを達成した。すごい速さだ。他のハイカーたちは、みな呆れている。
おめでとう!
それではぼくも、もうあと少しがんばって、
Keep going
.jpg)
苔の森(1)
.jpg)
苔の森(2)
.jpg)
苔の森(3)
.jpg)
苔の森(4)
ニューイングランド地方に入った
.jpg)
プロスペクト・ロック(ニューヨーク州)

ニュージャージー州の野生生物保護区
なかなかインターネット環境が整わず、しかもトラブルが続いて、ブログの更新ができないまま、こんなに日数がたってしまった。すでにマサチューセッツ州にはいり、きょう、数時間後にヴァーモント州に入る。距離的には順調に伸びている。
North Adams という町のホテルにいるのだが、残念ならが時間がない。さきほどiBePalに走り書きの原稿を送ったので、数日後にはアップしてもらえると思う。きょうは、無事に歩いているということのみのお知らせ。
写真も、ここ10日間ほどに撮ったものは、トラブルでダウンロードできずにいるので、ちょっと古めのもの。
ご期待に沿えずにいることが、心苦しい。ぼく自身、この作業を楽しみにしているだけに、残念でしかたがない。次回も、いつになるかわからない。けれども、可能な限りトライしてみるつもりだ。
膝の状況が悪く、じつは一週間前、小さな町からこの町の郵便局宛に、このコンピューターを郵送した。一か八かの勝負だったが、だいじょうぶだった。バックパックの重みが膝をさらに悪くしていることを思えば、また郵送することになると思う。もし、壊れてしまったら、ブログ更新はありえなくなる。無事を祈るしかない。
距離的には、あと1000キロを切った。この先、ヴァーモント、ニューハンプシャー、メインの前半と地形は厳しくなる。巨大な山のアップダウンが始まる。覚悟が必要になる。多くのバックパッカーも、心を引き締めている。ぼく自身も同じだ。膝の痛みとなんとかじょうずに付き合っていきたい。アパラチアン・トレイルの全体地図を見て、今自分のいる位置を見て、感動している。まだ1000キロもあるのだが、でも、ここまで歩いて
来たことの感動が、ある。
今後とも、応援、よろしくおねがいします。
なお、メールを下さっている皆さん、返事を書く時間がなく、そのままになっています。無事、ほぼ順調に歩いていますので、どうぞご安心ください。ありがとうございます。
Keep going
風景が変わった
![]()
この空、この雲、この池、この光、この風。幸せをかみ締めて歩く
![]()
一万年前の最後の氷河が作ったSunfish Pond
もうすでにペンシルバニアを過ぎて、ニュージャージー州に入ってきた。このあたりは、ニュージャージー州とニューヨーク州との州境付近なので、ふたつの州を行ったり来たりしている。きょう泊まっているホテルはニューヨーク州。明日、Vernonという町に下りるつもりだが、そこはニュージャージー州。そうして、明後日には、本格的にニューヨーク州に入る。
Delaware Water Gap という町でペンシルバニアが終わって、デラウエア川を渡り、ニュージャージー州に入った。入ってすぐに、わかった。風景が違う。明るい。森が若い。気のせいだろうか? 数日前から時々会うようになったMoss というトレイルネームの青年に訊いた。彼は、大学で生物学を学び、専門は“苔”。アパラチアンに来る前、アラスカやコロラドで苔の調査をした。だから、Moss。彼はアパラチアン・トレイルを歩き終え、大学院に進むのだという。彼は、ぼくに同意した。やはり森の雰囲気が違うことに、彼も気がついていた。
ひとつは、最後の氷河期と言われる氷河がアメリカ大陸を南下した1万年前。その氷河の最南端が、今歩いているあたりなのだ。はたしてそのせいなのかどうかは、専門家に聞かなければわからない。
でも、明らかに植生が違ってきた。森が明るいと、なんとなくうきうきする。何日かに一度は、前回書いたようなすさまじい雷雨がある。でも、あのときのように長続きはしない。日本の夕立と同じように、2,3時間で通過する。そして、青空が広がる。
雲が秋を思わせる。森を下った草原の花にも秋の気配が漂う。そして、何よりも嬉しいのは、ニュージャージに入って、トレイル脇でブルーベリーがたくさん実をつけていることだ。毎日、摘み、食べながら歩く。
でも、怖いこともある。ニュージャージー州は州の法律で狩猟がすべて禁止されている。そのことも会って、クマがやたらに多い。1マイル四方に一頭いるのだという。これは異常な数だ。今、州はあまりにも増えすぎたクマを減らそうとしている。ぼくも、おととい会った。シェナンドアのときと同じ、またもやコグマ2頭を連れた母グマ! 夕刻、ぼくの前をコグマ2頭が逃げた。母グマがいるだろうと探したら、案の定、丘の上からぼくを見ている。コグマの行方とぼくを交互に見ながら、警戒している。ことは、それだけだったが、その母グマの大きさに、少々腰がひけた。
さらに、ガラガラヘビが多い。ぼくは幸い、まだ会っていないが、出会うハイカーのほとんどが見たと言っている。そして、同じく、ほとんどのハイカーがクマにも会っている。
先日、Mr.Beer から届いたメールによると、明日ぼくが行く予定のVernonの町中を歩いているクマを彼は見たらしい。その話を地元の人にしたら、それは普通のことだそうだ。学校の校庭を歩いていることもある、という。それほどに、クマが多い。
人々の話を総合すると、明日以降、3日間ほどのエリアが最もクマとガラガラヘビの多い場所らしい。
このホテルは久々にワイアレスのハイスピードインターネット環境があるというので、泊まった。ついに値段が一泊100ドルを越えた。今までとはだいぶ違ってくることはわかっていた。南部では、同じレベルのホテルに45ドルほどで泊まれた。今、夏のバケーションシーズン。しかもこれから北へ行けば行くほど、ホテル代が高くなる。
これまでやむを得ず2泊していたのを、これからは節制しなければならない。
ということで、きょうは、このあたりにしておく。
もう、夜中の2時。朝8時には出発する。iBepalの原稿は、次回ということにする。
Keep in touch.
人の住む風景の愛おしさと、苦しみと
すさまじい一週間だった。これまで、むろん日本を含めて体験したことのない激しい雷雨が、3日間続いた。3晩、身の縮むような閃光とすさまじい轟音におののきながら、テントの中で過ごした。雷雨は遠のいても、豪雨が何日も続いた。少し小ぶりになり安心していると、数時間後にまた遠くで始まった轟きが、徐々に近づき、やがてその直撃を受ける。そんな一週間だった。全身ずぶ濡れ。テントもバックパックも、なにもかもがびしょ濡れ。
テントの中は、さすがにゴアテックスの威力で、気持ちよく寝られるのだが、朝、雨の中でテントを畳むときの惨めさ。それをバックパックに詰め、倍になった重さを背負って、豪雨に打たれながら歩き続ける辛さ。そして結局は、バックパックの中もびしょ濡れになってしまう。パソコンとかデジタルカメラとか書類とか、絶対に濡らしてはいけないものは、すべてカヌー用の防水袋にしまいこんでいるせいで、それら中身らは、濡れてはいない。
気温は連日30度を越えた中での豪雨。湿度は100パーセント。雨が上がっても、90パーセント近い高さ。レインウェアーは着ない。この季節、レインウェアーを着るバックパッカーはいない。いつもの姿で、Tシャツからパンツから濡れるに任せて歩く。雨がなくても、ここのところ、すさまじい湿気で汗がまるで滝のように全身を流れ、曇る眼鏡と、汗の臭さにうんざりしながら歩いていた。ぼくのフィールドであるシエラネバダの、あのジョン・ミューア・トレイルの暑さには湿気はない。乾燥した空気のなかで、じりじりと陽に焼けながらのバックパッキングだが、ここは違う。汗のにおいがほとんど気にならなかったジョン・ミューア・トレイルとは正反対。これがぼくの発する匂いなのかと、きれい好きのぼくにとっては、死にたくなるほどの臭さ。その匂いに、大量の蚊やハエがまとわりついてくる。常に歩きながら耳には蚊やハエのあのいやな音がうなりつづける。休憩しようと止まったとたんに、その敵たちは、いっせいにぼくの身体をTシャツの上からさえも刺しにくる。今、ぼくの身体には、数えただけで40を越える刺し後がある。
汗と雨とでずぶ濡れの服を着てテントに入りたくない。そこで毎日テントを設営したあと、水辺から汲んできた水でタオルを濡らし全身を拭き、すべて乾いている服に着替えてからもぐりこむ。濡れて臭い衣類は、木の間に張ったロープに吊るす。雨がどれほど激しく降っていようが、衣類は濡れ放題。どうせ、明日も同じだ。そして朝、その濡れそぼった衣類に着替える。下着だってどれほど新しいものに着替えたくても、それは意味のないこと。同じ下着を濡れたまま履く。ソックスも同じ。どれほど臭くても、新しいソックスを履けば、数分後に同じ状態になる。ならば、それも意味はない。ゴアテックスの性能を超えた雨で、靴のなかもびしょ濡れ。歩けば、靴の中に入った水が揺れる音がする。その靴も外に放ってある。乾かしようがない。朝、その靴を履く。そういった耐えられない状態も、2,3日すれば慣れてしまった。どうせ、濡れるなら、同じこと。気持ちの切り替えもできた。
湿気が多いこの環境。クモの巣もまた敵だ。うっかりしていると、歩きながら、あのクモの巣に顔を突っ込んでしまう。何度かそれをやる。眼鏡にべったりと張り付いた糸を取り除くだけでも、たいへんだ。気持ちがめげる。
さらに、ペンシルバニアのこのエリアは、ごろ石の連続だ。山の高低はそれほどない。楽な平坦歩きが多いにもかかわらず、なかなか距離が進まないのは、このせいだ。大小の岩と岩が重なり合い、もぐりこみ、突っ立って、しかも、その多くは浮石だ。よほど気をつけて歩かねば、ひっくり返り大怪我をし、脚を骨折する。このエリアで、どれだけのバックパッカーが、そのためにリタイアしたことだろうか。
さらに、その岩場の影に、多くのガラガラヘビが潜んでいる。幸い、このエリアでまだぼくは遭っていない。しかし、用心はしなければならない。ほとんどのハイカーが2匹会ったとか、3匹だとかいや俺は5匹だとか言っていた。
さらにさらに、夏のこの時期、たとえトレイルメンテナンスをしてあっても、草の茂りが早い。トレイル脇の雑草が伸び、トレイルを狭める。そのなかに、バックパッカーが恐れるポイズン・アイビーが魔の手を伸ばしている。多くのバックパッカーが、その被害にあっている。それにも、神経を向けなければならない。歩くことで、どれだけの神経を使っているのだろうか。歩き終え、雨の中、テントを張り、食事をし、横になり、これだけのすさまじい閃光と轟音があっても、すぐに寝入ってしまう。それだけ、疲れ果てている。]
そうしたなか、またしても天使が現れた。雷雨がやってきて4日目にはいっていた。朝起きると、いつもと違って空が明るい。晴れてはいないが、うす曇といった感じだった。その日の夜も、一晩中降っていたので、フライシートはびしょ濡れだ。テントも、地面をたたきつける豪雨によって跳ね返った土としぶきで外側は真っ黒。
その日、歩き始めて2時間ほどしたら、うっすらと陽が射してきた。ちょうどそのとき、ペンシルバニアの農村風景が薄っすらと見渡せる場所にきた。雨の中、しばらくそんな興味も気力もなかったぼくは、久しぶりに風景を眺めようという気持ちになって、トレイルを外れた。大きな岩が重なって、絶好のビューポイントだ。そこにも陽があたっていた。できれば、時間を考えて先へと進みたいが、ここでバックパックを広げ、テントなどを干すことにした。
一時間ほど経過しただろうか。ひとりの中年男性がきて、声をかけてきた。このすぐ下に家を持つ人で、散歩にきたのだという。いろいろと話しかけてきたので、ぼくも親しく話す。この数日間、トレイルでだれにも会わなかった。だれとも会話をしていなかった。久しぶりに人と話をして、楽しい時間だった。彼は、ニューヨークに家を持ち、ここの農村地帯の家は、彼のカントリーハウスなのだという。話に花が咲いた。それは、彼の職業とぼくのやっていることが、互いに興味深いものだったからだ。彼は、なんと、UAE(アラブ首長国連邦)のドバイで大学の教授をやっている。専攻は環境学なのだというのだ。ニューヨークに家を持ち、ここにカントリーハウスを持つが、彼自身はドバイに住んでいるのだという。
「これから、わが家に来て、シャワーを浴びないか? 息子に会わせたいし」という。彼の息子はあの名門中の名門大学であるジョージタウン大学の学生で、いつかアパラチアン・トレイルを歩くことを夢見ているのだという。
心が動いた。先に進みたい。早く進んで、早く、次の町に着きたい。その一心から、夢中で悲惨な環境のなかを歩き続けていた。
ただし、彼の車は、1マイル(1.6キロ)戻った場所に停めてある。そこから20分ほどもどったところで確かに地元の舗装道路と交差していた。そこにこの重いバックパックを担いで、戻らなければならない。これをするには、かなりの勇気がいることだった。普通なら、絶対にごめんだ。だが、このずぶ濡れで臭い身体を思ったとき、その1マイルはたいした距離ではなかった。再びもどってくれば、さらにその1マイルを歩かなければならない。3回歩くことになる。
だが、その誘惑は、あまりにも魅力的だった。
彼の家は、まだ建築途中のログハウスだった。家族みんなで優しくしてくれた。ぼくの話に興味を持ち、いろいろと質問をしてきた。シャワーを浴び、きれいになった身体になったからとは言え、3ヶ月も山暮らしをしているぼくを、美しい典型的なニューヨーカーの娘も、いやな顔ひとつせず、にこやかにぼくの話を聞いている。彼女もニューヨークの大学の学生だ。
ぼくを誘った彼はレバノンの生まれだということで、レバノン料理の昼食をいただいた。
けっきょくそこで3時間を過ごした。前後をいれ、4時間のロスだった。いや、ロスではないのだが、どうしても先を考えてしまう。その日は、夜8時近くまで歩き、テントを張った。その晩、雨はなかった。しかし、むしむしと蒸し暑く、テントのなかで、あまり快適には寝られなかった。
こうした嬉しい思いや辛い思いを重ねならが、やっとの思いでPort Clintonという、かつて炭鉱で栄えたささやかな町に下りてきた。アパラチアン・トレイル独特の言いまわしである「Gap」という名の峠では、そこ自体が、こうした小さな町になっているところがある。その街中をトレイルが通過する。Harpers Ferry もそうだった。
ポートクリントンの5日前にも、Dancannonという、やはり炭鉱で栄え、今は廃れ果て、見捨てられたような町を通過した。その前には、Boiling Springs という美しい町も通過した。ここは、嬉しかった。湧き水がそのままたまった、透明で清らかな水をたたえた池を中心にできた町。この池自体がこの町のシンボル。住民はこれを誇りにし、この水を決して汚したりはしない。
![]()
Boiling Springs という名の、美しい町。名のとおり、この池は湧き水が造り、すばらしく透明な水だ
この町があるCumberland Valleyの話をしよう。一週間ほど前、約2日間、50キロの距離をカンバーランドヴァレーの中を歩いた。アパラチア山脈は、巨大な山脈だ。北アメリカ大陸東部を南北に連なるこれだけの山脈になれば、それはたったひとつの連なりではない。ましてや、地質学的に世界一古いと言われる山脈だ、さまざまな褶曲、皺がある。いくつもの小さな山脈の集まりと言ってもいい。たとえば、一ヶ月ほど前から入ったブルーリッジ山脈。これもアパラチアン山脈を構成する山脈のひとつだ。
カンバーランドヴァレーは、このブルーリッジ山脈を、一ヶ月以上かかって歩き、ようやく終えて下りてきた谷なのだ。谷とは言っても、狭隘な谷ではない。地形的に見れば、ここも小さく盛り上がったアパラチア山脈の一部。ただ、標高が低く、なだらかなため、古くから開拓された農場地帯なのだ。ペンシルバニアの人の住む風景がそこにある。アパラチアン・トレイルは、そういった人の住む風景のなかを歩かせてくれる魅力もある。歩く脇を小麦を収穫するコンバインが通過する。犬の鳴き声が聞こえる。子供の叫び声が、こだまする。心に響く、懐かしさを感じる風景だ。むろん、自然という観点から見たときの風景としては、地球環境を考えたとき、たいへんな問題が存在する。でも、ぼくもまた、人間なのだ。人間の側から見たときの人々の生き模様を想像し、愛おしくも思う。そのカンバーランドヴァレーを歩く間も、ほぼ雨だった。それでも、深刻な降り方ではなかった。
![]()
トレイルは小麦畑の脇を通過した。すでに収穫期をむかえ、コンバインが轟音をたてて働く
この谷を越え、再び山に入った。まず、ピーターズ山脈という名の山脈を越え、隣のストーニー山脈に移る。そして、次にブルー山脈という山脈に移った。むろん、隣の山脈に移るとき、山を下り、再び登り返すという、歩くものにとっての苦痛がそこには伴う。が、このトレイルは、そのようにつけられている。これらの山脈を歩く間、ずっと恐ろしく、腹立たしい雷雨攻撃を受けていたのだ。
そして昨日、ポート・クリントンに降りた。雨は上がっていた。が、ものすごい湿気だった。日本の梅雨の湿気に負けはしない。そこにいるだけで、汗がとうとうと流れる。が、きょうは、何日ぶりだろうか。すっきりと晴れ上がった。湿気もない。ポート・クリントンの町から3マイル(4.8キロ)下ったところにある、Hamburg という町だ。この町で2日間、停滞している。目的はあのすさまじい環境からすべてをすっきりさせること。昨日浴びたホテルのシャワーの、これほど気持ちよく思えたことは、かつてあっただろうか。衣類も洗濯した。
ただ、問題が、じつはある。膝の具合が芳しくないのだ。この数日間、もろもろの苦難との戦い以上に、じつは、膝の痛みとの戦いがあった。このケアーをしなければならない。先を想うと、気持ちが暗くもなる。あまりにも、町での生活が増えたため、お尻に火がついてもきた。逆算してみて、到達時期が、かなり微妙になってきていることを知った。メイン州のMt.Katahdinのある到達点、Baxter State Park は、その気象環境の厳しさから毎年、10月15日に閉鎖される。それまでにはどうしても到達しなければならない。しかし、膝の痛さが気になる。
きょうは、ちょっといい話も書いたが、さんざん暗い話になってしまった。らさらに言えば、もうひとつ問題が起きた。デジタルカメラのメディアであるSDを挿入するパソコンのスロットが反応しなくなってしまったのだ。ということは、撮った写真をパソコンに移せず、つまり、新たな写真をブログにもiBepalにもアップできないことになる。SD用のpcカードアダプターが手に入れば、そのスロットを使いダウンロードすることができる。どこかでそれを手に入れなければならない。それがいつ、どこで手に入るか、今のところわからない。
ということで、次回の原稿、あるいは暫くお送りすることができないかもしれません。楽しみにしていらっしゃる読者の皆様には、ほんとうに申し訳ないのですが、しばらく猶予をください。あるいは、意外と早く可能になるかもしれません。いずれにしても、パソコンという精密機械を野外で使っているわけですから、なにが起こるかわからないということは、覚悟の上でこの作業をしています。
これからも、どうぞご期待ください。
今回アップした美しい写真で、心を安らげてください。
Jack-a-roo
Keep in touch
オリエンタルレッグス発見!
*きょうは、スペシャルバージョンとして、短い情報です。
*この原稿を読み終えたら、左下のスポンサーコーナーにある、Gregoryのロゴマークをクリックしてみてください。ホームページに、5月に書いた原稿と写真がアップされています。
再び、アパラチアン・トレイルに戻ってきた。7月6日お昼にワシントンDCに到着。予定通りエメット(Log jumper)が空港に迎えにきてくれていた。彼とは、昨年8月末以来の再会になる。前回のiBepalにも書いたのだが、彼は1999年のサウスバウンダー(メイン州をスタートし南下するハイカー)のスルーハイカーで、ちょうどぼくがHarpers FerryのATC(アパラチアン・トレイル協議会)を取材しているとき、彼がそこにいたのだ。そのとき彼のことも取材し、その記事と写真が山と渓谷社の、今はなくなってしまった「Outdoor」誌2000年新年号に掲載されている。その彼と、驚くことに昨年ジョン・ミューア・トレイルで再会した。これほどの偶然というのがあるのだろうか。ふたつのロングトレイルのそれぞれの一点に、ふたりが同時に存在したのだ。彼の驚きもそうとうなものだった。
彼はクリントン政権時代の合衆国政府専属弁護士を退職し、アパラチアン・トレイルに挑んでいた。靴底が大きくはがれ、ここで妻を待っていた。よくその靴でここまで歩いてきたものだと、そのとき思ったことを覚えている。
![]()
もうひとりのエンジェル「Emmett=Log Jumper」(Harpers Ferryで
![]()
アパラチアン・トレイル踏破を記念して、奥さんが製作したベッドスプレッド
そんなきっかけがあって、彼が今回、ぼくのトレイルエンジェルになってくれた。
空港に迎えてくれ、その晩、彼の家に泊めてもらった。ぼくが寝た彼のベッドにかけてあったスプレッドは、彼の妻がアパラチアン・トレイル踏破を記念して製作してくれたというキルトだった。中央にトレイル中最も厳しいとされるマウント・ワシントン山頂での記念写真がパッチワークされ、上部には彼が出会った幾人かのハイカーのトレイルネームが、下部には、彼が歩いた年や日付などが縫い付けてあった。
翌7日、彼のドライブでHarpers Ferry に戻り、再びトレイルに復帰した。そして、メリーランド州を通過し、約70キロ歩き、ペンシルバニアに入ってきた。そのきつかったこと。結果的に2週間のブランクが歩くペースを忘れ去ってしまっていた。一歩一歩が辛く、あえぎながらの登りが続いた。そして、予定外の町に下りて、いま休養?している。
ところで、日本での1週間は予想していたとはいえ、それを超える忙しさで過ぎ去った。目的は、前回書いたように、ぼくがかかわっているNPO法人信越トレイルの一部50キロが開通することを記念して開催された「信越トレイルフェスティバル」のシンポジウムにパネラーとして参加することと、講演をするためだった。その翌日からのトレイル歩きも、一部だけ参加した。あとは、編集者や関係者との打ち合わせ。そして、なによりも、そうとうに崩れてしまっている身体のバランスを矯正するための整体と病院通いだった。
そのフェスティバルは盛会だった。そして、驚きがあった。なんとなんと、そこに、あのOriental legs が参加していたのだ。
彼は、2ヶ月ほど前だろうか、トレイルから信越トレイルクラブにハガキを出していた。2年前、トレイル作りの参考にしているアパラチアン・トレイルをぼくと事務局とが視察した。そのことをどこかで知ってのハガキだった。その情報をもふくめたぼくのオリエンタルレッグス遊び(失礼)だった。彼が信越トレイルにわざわざハガキをだしたのは、それなりの意味があり、そのことも、ぼくにとって彼の存在を知る大きな手がかりだった。彼は今栃木県に住んでいるのだが、生まれが長野県木島平だったのだ。木島平は信越トレイルクラブが事務局を置く「森の家」がある飯山市と千曲川をはさんだ対岸なのだ。
彼は5月18日にHarpers Ferry に到達し、全行程踏破を終えた。3年かけてのセクションハイクだった。年齢68歳は、正しい情報だった。その年齢で、3年かけて歩いた。一年平均しても1000キロ以上歩いたことになる。
ぼくのオリエンタルレッグス探しは、こういう形で幕を閉じることになった。これも、不思議な縁だとしか思えない。ぼくが、日本にも優れたトレイルをとの思いから、ここ数年、積極的に参加してきたNPOの記念行事のその場で、最終的に彼に会うこととなった。こういうかたちで、ストーリーを閉じることになった。あまりにもうまくつじつまが合いすぎている。なんらかの縁があったのだとしか、思えない。ここにもトレイルの不思議が存在する。
そして、もうひとつの驚き。それは、この記念行事に参加してきたもうひとりの男性、佐藤さんの存在だ。彼は62歳。なんと、この夏、アパラチアン・トレイル北部、ニューイングランド地方を歩き、やはり3年目でアパラチアン・トレイル全行程を成し遂げるのだというのだ。彼もまたセクションハイカーとして、2年前から歩き続けていたのだ。この情報は、まったくはじめてだった。
ぼくのところに入っている情報は、すべてではない。あるいは、他にもこういった挑戦をされている日本人がいるのかもしれない。
![]()
信越トレイル縦走に向けて、参加者60人ほどが4班に分かれて斑尾山を登る
明日、トレイルに戻る。強大なハリケーンDennisが、フロリダで大暴れしているという情報が、ちょうど今、テレビをにぎわしている。予報では、そのまま北上し、アパラチアンの西部を通過するが、その影響はまぬがれない。それ次第で、今後のぼくの行動も変わってくるだろう。基本的にテント生活のぼくだが、ハリケーンに襲われてはたいへんだ。仮にシェルターで寝ても、前部開放式のシェルターなので、あまり意味がない。ただ、ハリケーンがくるたびになぎ倒される木々の下敷きになる危険だけは避けることができる。
できれば町でやり過ごしたい。
これから、ハリケーンの本格的シーズンに入ってくる。バックパッカーたちの行動も制約される。
次の報告をお楽しみに。
Keep going
心のハーフウエイ、そして、サプライズ
![]()
AT本部があり歴史の街でもあるHarpers Ferry は、ポトマック川とシェナンドア川が合流するかつての通商拠点でもあった
前回お届けしたWaynesboroを出発してから2週間以上が経過してしまった。その間のほとんどは、アパラチアン・トレイルでふたつめの国立公園であるShenandoah National Park 180キロほどを歩いた。このエリアは、国立公園局によってすべての動物が保護されているため、これほどまでに違うものかと、あらためて驚いたほどに動物に出会う回数が増えた。特にシカに会うのは日常的、大きな音を出したりしないかぎり、10メートルほどの距離にまで近づくことができる。まるで奈良のシカ状態だなと思ったほどだ。ただ、むろん奈良と違うのは、こちらのシカはあくまで野生のシカとして保護されているため、餌を与えたり近づいたりしてはいけないことになっている。
恐ろしいことにも遭遇した。クマとヘビだ。前回歩いたときは3度もクマに遭遇したのだが、今回は、ただの一度も会っていなかった。が、この国立公園に入って、まずびっくりしたのは、結果的に公園内180キロを歩いて、数えただけでもトレイル上だけで22の糞があったということだった。この数は、かなり異常だ。そして、ついに本物に出会った。それも2頭の子供を連れた母クマだった。30メートルほどの距離だろうか。しかも、トレイル脇1メートルのところにある木の下にいる。近づくとコグマ2頭はあわててその木に登っていった。母クマは、むろんコグマを守るために、その木の根元にいる。近づくと立ち上がり、鼻を鳴らしてぼくを威嚇する。それを何度かくり返し、けっきょくぼくはあきらめ、藪のなかを迂回してスカイライン・ドライブに出て、そこを2キロほど歩いた(シェナンドア国立公園内のトレイルは、スカイライン・ドライブと呼ばれるパークウエイと32度も交差しながら続いている。だからこういうことができた)。
へビにも4度会った。そのうちの2匹は、ガラガラヘビ。一度は、歩いていると突然足元で「シャラシャラ、シャラシャラ」という強烈な音がした。なんとトレイル脇50センチのところで、直径8センチほどの太さのガラガラヘビが尻尾を打ち震わせ、鎌首を立てて威嚇しだしたのだ。あわてたぼくは、2メートルは飛び退いただろう。もう一度は、大きな岩をよじ登ったところでバックパックを下ろして10分ほど休憩した。そして、そろそろ出発しようかと、背に立てかけておいたバックパックを背負おうと振り向いたとき、なんとバックパックの後ろ1メートルに、やはり大きなガラガラヘビがとぐろを巻いていたのだ。
![]()
突然、足元脇でガラガラヘビが威嚇の音を鳴らしはじめ、思わず2メートル飛びのいた
などなど、けっこうおもしろい経験をいくつかしたのだが、残念ながら時間がなくて書けない。きょうは、ひとつ大きなサプライズを書かなければならない上、あと2時間ほどで友人が、このホテルに迎えにくる。
ようやく、という思いと、早くも、という思いが交錯している。ながかったヴァージニア州850キロを歩き終え、ウエスト・ヴァージニア州Harpers Ferry という町に下りてきた。この町にたどり着くことを、多くのバックパッカーは心待ちにしながら歩いていた。それには、むろんわけがある。
ぼくにとって4度めのHarpers Ferry だ。過去3度は取材のために訪れた。その都度、いつの日か、アパラチアン・トレイルを歩いてこの町に到達することを心に思い描いていた。それが実現した瞬間だった。距離にして1600キロを越えた。まだ全体の半分を満たすには100キロ余り歩かなければなならないのだが、ぼくにとってのこの町は、ある意味、心のハーフウエイだった。
中世ヨーロッパの町並みを思い起こさせるような、この美しい歴史の町Harpers Ferry にはアパラチアン・トレイル3500キロを整備し続ける31のヴォランティア団体を統括するアパラチアン・トレイル協議会(Appalachian Trail Conference=ATC)の本部があるのだ。ぼくがアパラチアン・トレイルを意識しだした20年ほど前から、このATCが頭にあった。ATを取材するには、まずATC本部を訪れる必要があった。そして、この町の美しさに魅せられた。この美しさは歴史の美しさだ。この町は南北戦争の発端の町としても知られ、現在は、その中心街すべてが国のHistorical siteに指定され、国立公園局が維持管理にあたっている。
アパラチアン・トレイルにぼくが興味を持ち、こうやって歩いている理由はいくつかある、と以前にも書いた。自然ばかりではなく、歴史的文化的な側面の面白さ、さらにはこのトレイル自体を維持管理しているメンテナンスシステムへの興味があった。その歴史的側面とヴォランティアによるメンテナンスシステムのキーポイントがここHarpers Ferry にあるのだ。
一般のバックパッカーにとっては、ここにあるATC本部を訪れることで、一段落ついたことになる。ここで歩いていることの登録をし、協議会の職員たちと談笑し、情報を得、記念の写真を撮ってもらう。しかも、この町の直前に、彼らの尺度であるマイルで、ちょうど1000マイルを越える。これも彼らのひとつの目標なのだ。
そういったことごとを書き連ねるには、相当の時間と文字数が必要だ。その一端は、このブログでもいずれ書くとして、全体像はやはり本にしたときにまとめることになるだろう。
きょうは、時間がない。書かねばならないサプライズ。それは、明日、一時的に一週間だけ日本に帰るのだ!
![]()
Harpers Ferry 全体が国のヒストリカルサイトとして指定され、国立公園局が維持管理している
![]()
18世紀に造られたこの石段もアパラチアン・トレイルの一部になっている
![]()
街中にあるこのお墓には、南北戦争ばかりではなく、独立戦争の戦死者たちも葬られている
これは、出発前から決まっていたことだった。いつそれを書くかは、やはりHarpers Ferryに着いたときにしようと思っていたのだ。が、考えていたようにはいかない。書いたように、きょうは詳細を書く余裕はない。目的は、ぼくがずっとかかわっていたNPO信越トレイルクラブが数年にわたって構想していた「信越トレイル」の一部約50キロほどがほぼ完成し、そのセレモニーに参加するため。実際はほぼ完成したものの、本来のあり方としてぼくたちが重視しているソフト面の充実という部分がまだ不備なため、正式にはオープンとはせず、「信越トレイルフェスティバル」というイヴェントになる。そのシンポジウムのパネリストとして、また、ちょっとした講演を頼まれていたのだ。
かなり悩んだ末、その参考として2年前にスタッフとともに視察に来たこともあるアパラチアン・トレイルそのものを歩いているぼくが、そのセレモニーに参加する意味は、ぼくにとっても、信越トレイルクラブ大きなことだろうと判断した。
トレイルからどのようにして抜け出すのかが、大きな課題だったが、これはクリアーした。ふたりの友人がぼくをサポートしてくれる。ひとりはトム。もう一人はエメット。ふたりとも、かつてアパラチアン・トレイルで知り合ったハイカーだ。トムは2002年と2003年の2年にわたって全行程を踏破、エメットは1999年にスルーハイクしている。ふたりとも、定年退職したことをきっかけに歩き、今は悠々自適の生活をしている。
トムがトレイルでぼくをピックアップし、ワシントンDCの空港まで送ってくれ(Harpers Ferry はワシントンDCから車で2時間ほど)、エメットがもどってきたぼくを空港でピックアップし、トレイルまで送り届けてくれる。彼らも、ぼくの個人的なすばらしいトレイルエンジェルなのだ。
![]()
ワシントン郊外に家を持つトムは、今、ウエスト・ヴァージニアに理想的な大きさのログハウスを拠点に悠々自適の生活だ
そのセレモニーのために抜け出す時期がちょうどHarpers Ferry の近辺というラッキーな点もあった。国際空港がある大きな町から2時間などという場所は、アパラチアン・トレイルのほかの場所ではほとんど考えられない。しかも、そのワシントン郊外に、アパラチアン・トレイルで知り合ったふたりの友人が住んでいた。
ということで、6月29日に一時帰国し、一週間だけ滞在し、7月6日にワシントンDCにもどり、早ければ翌7日には再スタートしたいと思っている。
後半も、同じようなスタイルで歩き続けます。どうぞご期待ください。
Keep in touch
Jack-a-roo
出会いと別れ、そして再会。これがATの最大の魅力なのかもしれない

ちょっと、疲れ気味かな

彼が斉藤正史さん。ちょっと、疲れ気味かな
前回、ふたりめの日本人、斉藤正史さんと会った話を書いた。Daleville のOutfitterで偶然会ったのだ。彼はこの町に下りるつもりはなく、ただ、バックパックが壊れたため、新しいのを購入するためにOutfitter を訪れていた。ぼくは、20日ほど前、宿泊したホテルにデータブックを置いてきてしまい、それを購入するためにそこに行った。Dalevilleではたいがいのハイカーは、ここにあるいくつかのホテルに泊まる。そこで、1,2泊すれば、以前会った連中と再会する。
さまざまな情報からDalevilleあたりで斉藤さんがぼくに追いつくと踏んでいた。結果的にはそのとおりになったのだが、彼が通過していれば、このまますれ違いになっていた。
清水さんに会ったときもそうなのだが、ぼくは、こういったトレイルでの出会いは、単なる偶然ということではなく運命なのだと思っている。アパラチアン・トレイルに限らず、トレイルを歩き続けるぼくには、さまざまな不思議が付きまとう。そのことごとくが運命だとしか思えないような出会いなのだ。これこそが、本来のトレイルマジックなのだろう。
そういった、ぼく自身のさまざまなトレイルマジックの数々については、じっくりといずれ書く本のなかでまとめたい。
斉藤さんについての情報は、やはり何人ものバックパッカーから得ていた。トレイルネームは「Masa」。ファーストネームの正史からとっている。アメリカ人にも発音しやすく、親しみやすいネームだ。ぼくのJack-a-rooもまた、逆の意味で人気の的だ。日本人でありながら、最もアメリカチックなこのネーミングが、みんなの注目を得ている。日本人なのだから、日本人的なネーミングにしたほうがいいのではと思ったこともある。むしろ、そのほうが覚えられやすい。でも、あまりにもアメリカチックなこの名前は、じつにアトラクティブなのだとみなが言う。ほとんどの人は一度で覚えてくれる。「そのトレイルネームが、いい」と、多くが言う。このトレイルネームには裏話があるのだが、それも、またいつか書こう。きょうは違うテーマだ。
斉藤さんは32歳。独身。会社を退職して、いまこのトレイルを歩いている。多くのバックパッカーと同じく、彼にとっても、やはりアパラチアン・トレイル挑戦は、人生の大きな転換点だ。彼とDaleville で会い、昼食を供にした。彼は、そのままトレイルに戻る。そしてぼくは、ホテルに戻る。このまま別れては、もうトレイル上で会うことはない。話したいことは、ふたりともいろいろある。そこで、Waynesboro で会おうと約束した。ただし、彼は町でぐずぐずしているぼくより2日ほど早く着く。彼は、食料調達のため、ちょっと町に立ち寄りはしたが、ほとんど町での宿泊はしなかった。費用節約と、下りたときの気分の変化が怖いということもあったらしい。しかし、すでに1350キロほども歩き、相当の疲労がたまっていた。そして、足もかなり痛んでいたため、そろそろ休みをとろうと、彼は考えていた。その上、彼も、ぼくともっともっと話がしたかった。
Waynesboro のホテルに着くと、さっそく彼から電話があった。彼は、ホテルには泊まらず、無料の教会関係のホステルに泊まり、その後はYMCAの、これも無料で提供してくれる芝生にテントを張っていた。
彼と夕食をともにした。こちらに来てはじめてアメリカ食をやめ、中華料理を食べた。彼と話をし、彼の優しさと謙虚さに、ぼくは頭がさがる思いだった。ぼく自身、自然に対する優しさと謙虚さの大切さは、いつも心にとどめているつもりだった。それだけに、より彼の姿勢が嬉しかった。彼は、それほど山の経験をしてはいなかった。アパラチアン・トレイルをやろうと決心したのは、NHKの女優トレッキングシリーズでアパラチアン・トレイルの最北部を歩いた本庄まなみの番組を見て、さらに、TBSの「世界ふしぎ発見」の番組を見たのがきっかけだったという。これだけを聞けば、ちょっとミーハーチックで、「エーッ、そうなの?」と思ってしまう。NHKの番組には、ぼくもアドヴァイスということで少々かかわっていた。TBSの番組の内容はかなりの部分、「やっぱりやられたか」と思っていた番組だった。
そういったきっかけだったこともあって、彼のアパラチアン・トレイルへの知識はそれほどあったわけではない。ということは、ある意味、無謀とも思われることにもなる。事実、装備の問題から、たとえばあの雪のとき、テントも寝袋も、着ているものも、彼自身も全身びしょ濡れになり、その晩、寝袋にもぐりこんだ彼は、このまま生きて起きることはないかもしれないと、本気で思ったのだという。そういったトラブルがいくつかあり、それでも彼はめげずにがんばった。そして、それらの経験をすべて踏まえ、プラスに転換して、どんどん進んでいる。
彼のプラス思考は、じつに聞いていて爽快だ。アパラチアン・トレイルのすばらしさを心から堪能している。こうやって歩いていることに対して、家族、親戚、友人、バックパッカー仲間、トレイルエンジェル、そして、むろんトレイル自体と自然全般に対して、いつも感謝の気持ちを心に描いている。「ありがとう」という言葉を忘れない。こうやって歩いている自分がどれほど幸せなことかと、それを思うと、辛さも喜びに変わるのだという。町で食料補給をして、その重みが肩にずっしりときたとき、この重みは厳しい山を歩く自分の体力を支えてくれるエネルギーの重みなのだと、その重量ですら幸せに感じるのだという。
彼は、きょう、トレイルに戻っていった。山形県在住なので、日本でもそう会えることはないかと思うが、清水さんもふくめて、スルーハイクを終えた2人の話を、ぜひ聞きたいものだ。
清水さんと会い、斉藤さんと会えた。あとはOriental Legs だ。ただ、彼は、すでにトレイルアウトしている可能性もある。前回書いた後、斉藤からのも含めて、ふたつの情報が入った。ひとつは、彼は、やはりスルーハイクではなく、セクションハイクなのだという。これについては複数入っているので、そうなのだろう。去年、北部半分を歩き、今年は南部を歩いて、全行程を踏破するというのだ。だとすると、そろそろ達成している時期なのかもしれない。もうひとつは、これは話が分かれるところなのだが、奥さんがサポートしているといった情報だ。これについては、いずれ、また新たな情報が入ってくるだろう。

雷雨の前の光の戯れ」

石楠花街道、などと日本語に置き換えると違和感がある

こんな緑の海のなかでは、シカはどうしたって目立ってしまう

親しく歩いた彼ら若者たちと、Spy rock という名の岸壁に登った

そのトップからの眺め
話は変わる。斉藤さんの話で、4日ほど前、Hog Gap というキャンプサイトで、すごいトレイルマジックがあったのだという。彼が歩いていくと、そこに大勢の集団がパーティーを開いていた。そこは林道と交差するところで、彼らは車を連ねてやってきていた。斉藤さんを見つけた彼らは、彼に声をかけた。「スルーハイクかい?寄っていかないか。どんどん飲んで、どんどん食べて」と、盛大なご相伴にあずかったのだという。
彼らは、じつは1999年にほぼ同時に、マウント・カタディンに到達した、それぞれソロのスルーハイカー5人とその家族の集まりだった。いわば、同窓会だ。そして、どうせ同窓会をするのなら、アパラチアン・トレイルでやろう。そして、そこを通過するバックパッカーたちを誘い、トレイルマジックで貢献しよう、ということになったのだ。
バーベキューグリルを持ち込んでの盛大なパーティーに、そこを通過する何人かのスルーハイカーも呼び止められた。ステーキを食べ、ビールをどんどん進められた。食べ過ぎ、飲み過ぎた斉藤さんは、その日、そのずっと先まで歩く予定だったのだが、ついに諦め、そこでキャンプすることにしたのだという。
このホテルにも、ぞくぞくとぼくの知るバックパッカーがやってきて泊まっている。一歩、部屋の外に出ると、「Hi、Jack-a-roo! How is it going?」と、声がかかる。その声が、嬉しい。みな、トレイル仲間なのだ。何度となく会い、別れ、また会った連中なのだ。何度もこうした再会を繰り返して歩く3500キロという遥かな距離を、それぞれが心にさまざまな思いを持ちながら、互いの心のうちを慮りながら、半年という長い時間を費やしている仲間なのだ。彼らの心の奥底で通じ合う絆は、どんどんと強くなっていく。
アパラチアン・トレイル以外にも、もっと長いロングトレイルはある。でも、これほどにバックパッカーの心をひきつけるトレイルは、たぶん他にはないのだと思う。たとえば、昨年清水さんが完遂したパシフィック・クレスト・トレイルはどうだろうか。清水さんの話を聞けば、やはりトレイルで会った仲間たちへの思いはそうとうに強いものはある。でも、PCTを歩くバックパッカーの多くは、こういった出会いの楽しみよりも、いかに軽量に速く歩くかを競う、アスリート感覚の連中が多いのだという。もっと先鋭的な人たちの集まりで、こういったことには、それほど興味のない人たちのなだろうか。PCTに興味がある人たちは、これほどに幅の広いさまざまな層の集まりではない。
ただ、ぼくにとっては、アパラチアン・トレイルのこの雰囲気は、せっかくこの豊かな自然を歩きながら、そのすばらしさを堪能する人がどれほどいるのだろうか、という疑問が常にある。アパラチア山脈に広がる文化的、歴史的面白さを、どれほどの人がわかっているのだろうか、と考えてしまう。
さて、明日、ぼくも再びトレイルにもどる。トレイルへは、無料のシャトルサービスが送ってくれる。この町Waynesboro のATハイカーに対するもてなしは、ただものではない。以前からそういった話は聞いていたが、町をあげて、ATハイカーを支援している。トレイルヘッドからこの町までは、約8キロほどある。Rockfish Gapというこのトレイルヘッドには、USハイウエーとインターステート・ハイウエーが交差する。しかもここは、ブルーリッジ・パークウエ ーがスカイラインと名を変え、そのままShenandoah国立公園へと入っていく。だから、そこにはツーリストのためのインフォメーション・センターがある。ATハイカーも、そこへ立ち寄る。そこには、ATハイカーがWaynesboro に下りていくための、さまざまな情報が用意されている。まず、町とトレイルとを結ぶ無料送迎サービス。ホテルをはじめとしたさまざまな施設の案内。そのガイド。それらを、すべてヴォランティアの人々がやってくれる。町の施設も、みな親切だ。ぼく自身、インフォメーション・センターでインターネット環境のいいホテルを探してもらい、無料でそこまで送ってくれるヴォランティアを手配してくれた。ヴォランティアの多くは、定年退職したお年寄りだ。みな、心優しいもてなしをしてくれる。彼らにとって、これが生きがいでもあるのだ。
ぼくらはみな、感謝の心を伝え、その恩恵を受ける。そういった地元の人々の支えがあって、ぼくたちのスルーハイクは成り立つ。
以前にも書いたトレイルでの飲食サービスというトレイルマジック。疲れ果てて歩くぼくたちにとって、それがどれほどありがたいことだろうか。どれほどの気持ちをこめて「ありがとう。感謝にたえません」という言葉を彼らに返したらいいかわからないほどに、感動的だ。クーラーボックスが、トレイル脇に置いてあることも、何度もあった。開けると、中にはさまざまな飲み物やスナックが入っている。思わず、奇声を上げたくなる。

ウァー、こんなにある。でも、次の人たちとシェアーせねば。一本だけいただく
ところが、これが人間の性なのだろう。林道と交差する地点に来ると、ついついそれを期待してしまうという現象が、ぼくも含めたすべてのバックパッカーにある。期待し、行ってみると、ない。ないと、がっかりする。どれだけ、それを繰り返したことか。疲れ果て、お腹をすかせ、喉をかわかしたバックパッカーにとって、やむを得ないことなのだが、ちょっと哀しくも、おかしくもある。ただ、感謝の心を忘れてしまったら、おしまいだ。
こんなこともあった。もう20日ほど前になるだろうか。ある朝、テントをたたみ、一時間ほど歩いたところで交差する林道に2台のピックアップトラックが停まっていた。その車の脇に3人の初老の男性が待っていた。このときは、朝、起きて、朝食を食べてすぐたったためもあり、まったく予想はしていなかった。
「ここから5マイルほど下りた村まで行って朝食を食べないかい?」と言う。「後ろから誰かくるかい」と聞くので、「ちょっと前に追い抜いた男女がいる」とこたえると、「オーケー、じゃ、彼らが着いたら、いっしょに送っていきましょう」ということになった。
彼らが到着し、ぼくたちはピックアップトラックの荷台に乗り、小さなコミュニティーのある宗派の教会に連れて行かれた。いっしょに荷台に乗ったトレイルネーム「クリケット」は、「なんだか人さらいみたいだ」と、笑っている。助手席に座った女性ハイカー「メイフライ」は、にこやかにその人さらいと話をしている。牧場が広がり、フロントポーチつきの小さな家が数件あるだけの典型的な南部の風景だ。荷台に揺られながら、のどかなその風景の中を走るだけでも、ぼくたちは幸せだった。ぼくはハーモニカを取り出して「カントリー・ロード」を吹いた。クリケットが歌った。まさに、あの歌詞の、そのままの風景だった。
教会の地下に案内されて、驚いた。7人ほどの年配女性がにこやかにぼくたちを迎い入れてくれた、その部屋のテーブルには、豪勢な朝食が用意されていたのだ。アメリカ南部には独特は豪勢なブレックファーストの風習がある。前菜からデザートまでの食事でぼくたちをもてなしてくれた。最後にはギターによるブルーグラスの生演奏つきだ。食事が終わるころ、また何人かのバックパッカーが案内されてやってきた。

教会の地下での心温まるもてなしを受けるクリケットとメイフライ

朝からこんなに食べちゃっていいんだろうかと思いながらも、おかわりをする
食事が終わり、代表のおばあさんが、ひとりずつにハグをして、道中の無事を祈っての別れだった。そして、また、ピックアップトラックでトレイルまで送りとどけてくれた。
このもてなしの精神。すべてはキリスト教会のヴォランティアによる慈善行為なのだった。キリスト教独特の心からのほどこしなのだ。彼らの笑顔は、今でも忘れられない。純粋に心からぼくたちを歓待してくれていた。
でも、哀しいことに、本当にこれはぼくの哀しい性なのだが、いつものように違う角度から考えてしまう。この教会がというわけではないが、保守的な、原理主義的なキリスト教宗派が、今のアメリカの体制を支えている。国際政治に興味が深く(じつは大学で政治学を専攻した)、特に今のアメリカのあり方に批判的な目でみるぼくは、その体制を支える保守的キリスト教徒の、踏み込んではならないところまで踏み込んでいる政治行動は、とても危険なものだと思っているのだ。
ぼくがアパラチアン・トレイルに興味を持っているひとつの点に、実は、この政治的問題点がある。あまりにも奥の深い、重大な問題なので、軽々とここで書くわけにはいかない。このテーマに関しては、何度か、トレイル上で、こういったテーマに興味のある数人バックパッカーとも議論した。日本に住むアメリカ人の友人からは、「絶対に、アパラチアン・トレイルでその話をするな」と釘をさされていた。「保守的な考えを持つ連中と議論すると、始末に終えないことになるぞ」というのだ。でも、これはぼくの大きなテーマなのだ。
たとえば、ノースカロライナのある宗派の行動が、今、問題になっている。隣人を愛し、慈悲の心を強く説く彼らが、去年の大統領選挙で民主党のケリー候補に投票した信者たちに対して、村八分のような攻めをしている。その矛盾点に気がつかない純粋さが、怖い。
あの、心優しい人々の裏にある政治的な問題点をも考えてしまうことのぼくの悲しさは、思えば思うほど、強くなる。とても、辛いことだ。
人間の心にとって、どれほど宗教が重要なものか。どれだけの人々が信ずる宗教によって支えられてきたか。むろん、ぼくは心得ている。ただ、宗教に対する心が純粋であればあるほど、その人はより原理主義的な信仰へと入り込んでいきやすい。そして、原理主義的な宗教は、結果として他を認めなくなる。この矛盾点が怖い。という、ぼくの思いに対する批判は、重々心得ている。
このへんで、やめておこう。
書きたいテーマは、あまりにも多すぎる。次回のテーマにしようと前回書いたslack packingについては、一週間前iBepalにアップしたので、そちらを読んでほしい。ただ、これもまだまだ書き足らない。アパラチアン・トレイルを歩く歩き方には、いくつかの方法があるのだ。それは、いずれまた書くことになるだろう。
ps
明日、出発と書いたが、な、な、なんと、明日、強力なハリケーン“Arlene”がフロリダ西部に上陸するというウェザーニュース。コースによっては、その後アパラチアン・トレイルを直撃する可能性がある。直撃はなくともかなりの風雨になることは間違いない。向こう一週間の予報はすべて雨。しかも雷を伴っている。シェルターに寝てもハリケーンではびしょ濡れ。テントを張れば飛ばされる可能性もある。さあ、どうしようかと、みな深刻に考えている。でも、先を考えれば、だれだっていつまでもここに停滞することはできない。いちかばちかで、行くしかないだろう。みな、そう思っている。
オリエンタルレッグスを追え

Sunrise coffee

この日まさに目指すTinker cliff山頂に朝日が昇った
前回アップしてから2週間ほどたったのだろうか。なかなかインターネット環境のいい場所がなく、ブログ更新もiBepal原稿も書けないでいた。
昨日、Dalevilleという、インターステート81号が走るヴァージニアの町に下りてきた。スプリンガーを4月3日に出発して2ヶ月弱。距離にして1140キロほど歩いたことになる。今、行程表を見てちょっと驚いたのだが、ヴァージニアに入ってからすでに400キロ以上歩いたことになる。ヴァージニア州は、アパラチアン・トレイルが通過する14の州のうち、最も長い距離で約850キロもある。その半分ほどを歩いたことになる。
と、さまざまな数字をあれこれ頭に描きながら歩いているのだが、思い方ひとつで、気持ちのありようもいろいろだ。
やっとヴァージニアに入ったとき、1000キロを越えたとき、その距離が全体の3分のⅠ近くになったと思ったとき、ヴァージニアも半分近くになったことを知ったとき、それまでの行程をたどってみて、やっとここまで来たかと感じるか、でも、まだ3分の2も残っているんだぞと、あるいは、まだまだ夏前だのに秋まで歩き続けるんだぞと、先の距離と時間の果てしなさを受け止めるか、これから先の長さの中でさらなる出会いと経験を楽しみとして捉えるかによって、そのときの気持ちが行ったりきたりする。
これほど長い距離ではなくとも、日本の山を縦走したときとか、厳しい山に挑んだときとか、だれにでも経験のあることだろう。そう言えば、受験勉強に取り組もうとしたときや、マラソンを走っているときや、大学生のとき、はじめての渡航だった半年にわたるニューギニア遠征のときなど、心の浮遊しがちなぼくは、いつもそんな状態だったっけ。
でも、今回言えることは、日々、そのときそのときの厳しさや辛さに苦渋しながらも、その過程をクリアーして振り返ってみたときの満足感、アパラチアン・トレイルという10数年来の思いを今こうして実現し、取り組んでいるのだという幸せ感、歩くという人間本来の原始的な移動手段によってこれだけのことができているのだという日々の達成感、そして、それをさせてもらっている自然と、ぼくを支えてくれている人々に対する感謝の気持ち、悦びの気持ち、畏怖の気持ちが、常にぼくのなかにある。だからこそ、こうして距離を伸ばしていける。
これだけの距離を歩けば、書きたいことは山ほどもある。ただ、あまりにもその山が大きすぎて、多すぎて、なにをどのように書いたらいいのか、難しい。帰国して、いずれ出す本のなかでは、その山ひとつひとつを表現する楽しみがある。

雷雨の直前、サンシャワーをバックに先を急ぐバックパッカー

McAfee knobで、落差600メートルのこの崖淵を約1キロ歩いた
この1000キロを越える距離の間に、ぼくを楽しませてくれているひとつの遊びテーマがある。タイトルは「Oriental Legsを追え」。
じつは今、アパラチアン・トレイルを歩いている日本人は、ぼくを含めて4人いる。これだけの日本人が歩く年ははじめてのことだ。ぼくが知っている限り、過去にアパラチアン・トレイルをスルーハイクした日本人は2人。あるいは情報がないだけで、もう少しいるのかもしれないが、いずれにせよ、その程度の数だった。それが、今年はどうしたことか、4人も歩いている。ひとりは先日お伝えした北海道からの清水さん。もうひとりは、山形からの斉藤さん。このふたりは確認済みだ。清水さんからは、昨日開いたぼくのemail address に連絡が入っていた。彼はぼくよりもすでに10日以上先を歩いている。ぼく自身、たとえば昨日までの3日間、平均30キロを越える距離を歩いたりはするものの、町で怠けて2泊してみたり(仕事でね)、ダマスカスのフェスティバルで長期休養をとってみたりしているため、ま、そのくらいの差はついているかなと、思ってはいた。きょう斉藤さんの新たな情報が入ってきた。おそらく、きょう午後、ここDalevilleに到着する。ダマスカスのフェスティバルの翌日にダマスカス入りしたということを聞いていたので、おそらく、もうすぐだろうと思っていた。このDalevilleでぼくは予定外の3泊(月曜日がこちらのメモリアルデーで、郵便局がお休み。なんと3連休なので、火曜日朝まで待たねばならないという間の悪さ)するので、ここで追い抜かれる。
そしてもうひとりが、Oriental Legs。彼の情報は、じつはぼくが歩き始めて4日めごろからさまざま入ってきていた。まず最初に聞いたのが、
「日本人で、トレイルネームをOriental Bagsという人が、2週間ほど先を歩いているよ」という情報だった。
その後、「日本人で、トレイルネームがOriental Legsという68歳のハイカーが2週間ほど先を歩いているぞ。彼はウイスコンシン州に30年以上も住んでいるんだそうだ」という情報。
そして、3つめの情報は、「メリーランド在住の日本人医師が歩いている」
4つめ。「Crazy Legsという年配の日本人がセクションハイクをしている」
というものだった。
なんと、トレイルネームだけでも3つ飛び込んできた。これが不思議さとぼくの好奇心とを誘った。この韓国人の医師というのは、ボルチモアに住んでいる韓国人ハイカー、アルバートのことだろう。
その後、さらに入った情報をまとめると、どうやら、トレイルネームはOriental Legsがy正しい。年齢は68歳。これも複数の人からの情報なので、正しいだろう。住所は、ウイスコンシンではなく、栃木県栃木市だ。これは3つの情報から。しかも、そのどれもが、そのOriental Legs が自筆で書いた住所だから、間違いないだろう。
ただし、出身は長野県木島平。これも本人が書いた情報。面白いのは彼が書いたメモを持っていたバックパッカーがぼくに言ったのは、彼は長崎県出身だということ。これは長野県の間違い。
本名はHaruo 土屋。ここまで、わかってきた。そして、いまだにわからないのが、彼がセクションハイクなのかスルーハイクなのか、ということ。年配の方なのだが、足が速いという情報と、ゆっくりと歩いているという情報。奥さんのサポートを受けて歩いている(これは年配のスルーハイカーによくある方法なのだが、車でパートナーが先回りをして食料調達をしたり、そのとき必要としない荷物を車で運んだりする)という情報と、いやそうではない、ひとりでこつこつとやっている、という情報。
長野県木島平出身という情報は、なんと、これまた不思議な縁なのだが、ぼくがかかわっているNPO信越トレイルクラブ宛に、彼から直接ハガキが届いたのだ。信越トレイルクラブも、突然の見ず知らずの人からのハガキにびっくり。実は一昨年11月。ぼくも含めた信越トレイルクラブのメンバー数人で、アパラチアン・トレイル南部の視察をしに来たのだ。その情報が彼のところに入ったのだろう。その本部が木島平のすぐそば、飯山市の森の家にあるので、土屋さんが律儀にもハガキを書いたのだろう。ただし、その文面を見る限り、その信越トレイルクラブに深くかかわっているぼくがいまアパラチアン・トレイルを歩いているということは、彼はご存知ないようだ。
清水さんがかなりのスピードで歩いているので、あるいは途中で追いつくかもしれないということを、ぼくは期待している。それによって、まだ残されている謎は、解ける。
これだけの情報、ぼくが追い求めたものは、ひとつもない。この1000キロ余りを歩いていくうちに、ぼくが日本人だと知って、あるいはライターだと知って、そういう情報を教えてくれるのだ。
「Oriental Legsを追え」の謎解きは、これからも続くだろう。なによりも面白いのは、3つのトレイルネームが入ってきて、そのどれもが、Oriental と Legsでつながっているということが、一人のトレイルネームに違いないと推測させたことだった。
土屋さん、ごめんなさい。こんな遊びをしています。プライバシーの侵害にならなければいいのですが・・・。
寒気の影響で、季節が動かないという話を前に書いたが、さすがに5月も末になって、ぼく自らのアップダウンによる季節の色変化だけではない、季節の推移がはっきりとしてきた。あの可憐だった初春の花々にとってかわり、標高が500メートル、600メートルの地点まで下がると、夏の花が咲き始め、トレイル脇は夏草が生い茂り、草いきれを感ずるようになってきた。喬木の新緑は標高1200メートルほどにまで上がり、低地の山はもううっそうとした夏色の深い森だ。
そして、ぼくが待ちに待ってきた花が咲き始めた。Rhododendron(石楠花)と、Mountain Laurel(山月桂樹)の花。まだ、トレイルを花のトンネルで覆うほどではないが、歩く苦痛からぼくを解放してくれている。特にぼくは、月桂樹の花が愛しい。どう表現したらいいのだろうか。開花直前のピンクの蕾のまるでコンペイ糖のような、砂糖菓子のような美味しそうな姿。一週間ほど前に、はじめてトレイルでこの姿を見つけたとき、思わず頬づりをしてしまったほどだ。今では、普通に見られるのだが、見るたびに声をかけて写真を撮ってしまう。そんな異常なぼくが撮った写真をごらんいただきたきたい。
そして、ぼくが待っていたのは、花だけではない。Sassafrasという名の潅木。いつまでたっても、待望のその葉を見ることができないでいたのが、この数日のうちに、標高600から800メートルの山中で、もうどこにでも見られるようになってきた。そして、その葉を見るたびに、思わず微笑んでしまう。そして、ときどき、「ごめんよ、ぼくは君が好きなんだよ」
と言いながら、葉の着いた枝をちょっと折って、口にくわえて歩く。
この葉っぱの形に、ぼくは深く引かれている。なんとも奇妙な、中途半端な形をしている葉っぱなのだ。前に書いたように、花の色、姿、その微妙なデザインもそうなのだが、葉っぱの形って、それぞれが当たり前のような形をしていても、やはり自然の完璧な姿をしているのだ。そのなかにあって、Sassafrasの葉っぱに限って、ほほえましいほどに奇妙な形をしていて、その奇妙さが可愛らしく、ほほえましいのだ。なんとなく愛嬌があり、哀しさも秘めている感じがしないかなぁ。
それに、このSassafrasというのは、いろいろと人間に貢献していてきた木でもあるのだ。ぼくが口にくわえて歩くというのは、そこに意味がある。つまり、枝にはほのかな香りがあり、しかも防虫、殺菌効果がある。だから、先住民族インディアンも、ヨーロッパからの移民たちも、この枝を爪楊枝にし、根っこをティーとして好んで飲んでいたのだ。今でも、この地方ではSassafras Teaは飲まれているし、飴の材料にもなっている。また、そのちょっと太い枝をこの地方独特の芸術的とも言っていい、こだわりの箒の柄として用いてもいる。そうしてみると、ぼくが住んでいた八ヶ岳の森に生えていて、春になると真っ先に黄色の花をつけるダンコウバイ(檀黄梅)と同じではないか。この枝の匂いといい効能といい、まさにSassafrasは日本のダンコウバイであり、有名なクロモジなのだ。
アパラチアンの春の花の写真コレクションは300を越えた。葉の写真コレクションも少しずつだが増えている。前回、数点公表した写真は、インターネット関係の影響か、すべてがにじんでアップされ、がっかりした。まだ、iBepalとPENTAXでアップした写真のほうが鮮明だ。実際は、そのアップ写真がもっともっと鮮明に美しく撮れているのだが、ブログでは期待できない。
夏も近づき、今の季節を代表し、ぼくを楽しませているRhododendron, Mountain Laurel, Sassafras をここではお見せすることにしよう。
それでは、
See you next time
PS
このブログを更新した1時間後、町のOutfitterに買い物に出かけてたら、なんとそこに斉藤さんがいた!!!
壊れたバックパックを新しいのに交換しにきたのだという。まさに予想どおり、このDalevilleで彼に会った。彼もかなりのスピードで歩いてきたようだ。が、アパラチアン・トレイルの歩きを心から堪能しているようだ。彼は、この町に滞在はせず、このまま山に入っていくというので、つい今まで、彼とPizzahutに入って、ランチをいっしょに食べながら、いろいろなお話や情報交換をした。彼のバックパックもそうとうに大きい。清水さんもそうだが(ぼくも)、日本人はみな小さいのに、バックパックはみな大きい。彼のバックパックは重すぎて耐え切れずに壊れたのだそうだ。
ぼくは、明日、スラックパッキングという方法で、3日間、逆方向に歩くので、明日か明後日、山のどこかで彼にまた会うだろう。そう彼に言って、別れた。スラックパッキングのことは、次のブログで書くことにする。
l。あまりにも可愛くて,何度も立ち止まって微笑んでしまう.jpg)
Mountain Laurel(山月桂樹)。あまりにも可愛くて、何度もたちどまって微笑んでしまう

そのクローズアップ。蕾のおいしそうなこと
。歩く足元はこんな感じ.jpg)
こちらはRhododendron(石楠花)。歩く足元はこんな感じ

Sassafras。この中途半端な葉の形に親しみがわく
Trail Angel たち
数日前、ダマスカスを通過し、約100キロ歩いたところで、フロリダからわざわざぼくに会いにやってきてくれた和子&チャック夫妻に会い、その後、二日間、彼らがキャンプをしている(彼らは、フロリダからキャンパーでやってきている)キャンプグラウンドでいっしょに生活をし、極上のお手製料理をご馳走になり、ぼくの胃は完全にリッチになりすぎてしまったようだ。こうして町に下りるたびに、信じられないほどの食欲で、ホテルにいる間じゅう、いつも口のなかに何かが入っている。普段、町ではまず食べたことのないような甘いものから、ソーダ類、ステーキ、ピザ、ハンバーグと何でも食べる。そうした胃をなだめすかしながら、翌日、山に入る。山では言うまでもなく、すべてがフリーズドライだ。昼はトレイルミックスをかじりながら歩く。胃は、どうしたって美味しいものをほしがる。特に疲れているときは甘いものをほしがる。以前、山中でベイグルにブルーベリージャムをたっぷりと塗りつけて、大きな口に入れようとしている奴の横を通り過ぎる時、そいつを殴って、奪ってやろうかとさえ思ったほど、それがこのうえなく贅沢な食事で、よだれがでそうなほどうらやましく思ったことがある。以後、町に下り、ホテルに泊まるたびに、コンチネンタルブレックファーストのベイグルとブルーベリージャムをこっそり部屋にもって帰り、翌朝の山での朝食にしているぼくなのだ。
そのぼくが、アパラチアン・トレイルを歩いている間に食べることなど考えてもみなかった食べものを和子さんご夫妻が用意してくれていた。

ぼくの最高のエンジェル,和子&Chack
おふたりは、フロリダの西の端にあるペンサコーラという町に住んでいる。和子さんは沖縄出身で、アメリカ在住すでに38年。ご主人は海軍と国防総省をリタイアした方で、おふたりの趣味は海釣り。しかも、場所は、あの憧れのヘミングゥェーのメキシコ湾なのだ。フィッシングボートを持ち、沿岸、沖合いと、さまざまな釣りをする。今回、ぼくにご馳走するために、彼らは釣りに出かけ、和子さんが刺身を作ってくれたのだ。
キャンプテーブルに出てきた刺身を見たときの胃の震えは、当然、言葉では言い尽くせないし、あの感動をどう表現したらいいか、わからない。ご主人がすぐ横のせせらぎで冷やしておいてくれた缶ビールを3本も飲んでしまった。それほどビールを飲んだのは何年ぶりだろうか。体調を崩し、医者にアルコールとカフェインを禁止されたのは、もう4年ほど前になる。そうでなくても、体調が悪ければ、アルコール類など、まったく飲む気にさえならなかったぼくが、今、こうして、かなり無茶なことをしていながら、快調なペースで歩いている。ぼく自身がむろんそうだが、5年前のぼくを知る者は、ぼくが別世界にいるように感じるはずだ。
和子夫妻に出されたディナーは、巨大Tボーンステーキ。そんな巨大なステーキ、普段ならとても食べきれない。それをなんなくぺろりと平らげた。翌日のディナーは、またしてもメキシコ湾産の魚のソテー。朝食は、パンケーキ。これも信じられないほど、何枚でも食べられる。翌朝は味噌汁にご飯ね、と和子さんに言われたぼくは、さらにパンケーキをも注文してしまった。味噌汁にご飯にプラスしてパンケーキなどという組み合わせは、むろんはじめてだし、金輪際これからもないことだろう。

まさか、こんな魚料理がアパラチアンで食べられるとは・・・
町に下りたぼくの胃は、とりあえず、いかれている。シエラネバダの時もそうだが、今回も、まず町に下りてなにがほしいかといえば、何をさしおいても、ヴァニラシェイクなのだ。それも、マクドナルドのあの甘いヴァニラシェイクがほしい。次にステーキかピザ。そして、グロッサリーでポテトチップスとサルサやオニオンディップなどのジャンクフードを買い込んで、仕事をしながらホテルで食べている。
それでも、翌日からの山での生活では、気持ちを切り替え、胃を説得する。今のところ、それはうまく言っている。でも、今回は、刺身を食べてしまったのだ!!
和子さん夫妻は、ぼくの個人的なトレイルエンジェルだ。二日間のキャンプグラウンドでの生活の後、彼らは、ぼくが原稿を書くためにアービンダンのこのホテルに送ってくれ、さらに、ここからダマスカスのフェスティバルへ取材ででかけるため、昨日、今日と送り迎えをしてくれた。明日は、気持ちを切り替えて、再び山に入らねばならない。それも、彼らが送ってくれる。その間、彼らは山の公営キャンプグラウンドでステキなキャンプ生活をしている。うらやましい生活だ。リタイアしたらこういう生活をしてみたいという、理想の生活をご夫妻はしている。和子さんは、フロリダにあるロングトレイル「フロリダ・トレイル」の北のセクションをメンテナンスするヴォランティア組織の一員で、そういったことからぼくの本とぼくの活動に共感をしめしてくれているのだ。
ダマスカスのトレイルフェスティバルについては、A&Fのホームページに書くので、ここでは、和子さんたちとのキャンプ風景と、これまでのトレイルエンジェルの写真を公開することにする。
なお、次がいつブログ更新できるかは、今のところつかめないでいる。この先、おそらく20日ほどはハイスピードのインターネット環境は望めないはずだ。アナログの電話でなんとか試みてみるつもりだが、当初がそうだったように、たぶん、あまり期待はできないだろう。ということで、いつになるか、わからないが、
See you next time

歩きはじめて2日目のエンジェル。近くの町の教会からの差し入れだという

9日めのエンジェルたち。芸術家集団だった。ライスにチリビーンズ、それに手製のサルサ・・・

雨のなかのエンジェルたちはテネシーから。この直後に雪になる。ステーキやハンバーグをいただく

トレイルに張り紙があり、道路にでて、そのとおり行ってみるとこのログハウス。チリビーン、アイスクリームなどのもてなし

この渋いログハウスでも、同じようなことが・・・

道路からトレイルに入ると、こんなのもあった
ぼくの日常は、すべて自然とともにある
ようやく、昨日の朝、ヴァージニア州に入った。入ってすぐにDamascusという町があるアパラチアン・トレイルは、この町のメインストリートを通過する。スルーハイカーにとって、当面の目標地点でもある。ここに入り、身も心もひと段落という町なのだ。理由はいろいろあり、そのことは先ほどiBepal に書いた。
ここまでの過程は、やはり思ったとおりいろいろあった。前に書いた足の問題が、ここ暫くの間、かなり深刻だった。はじめ、靴ずれから始まった痛みが、次に左足の踝上の骨の痛みになり、右足の親指の付け根の骨の痛みになり、ここ3日ほどは、右足の太腿の痛みから膝の痛みになり、右足の膝の痛みをも誘発した。
ぼくの長男がアメリカの大学でスポーツ医学を勉強していたということもあり、そのことを電話で話すと、そういった痛みの連鎖はよくあることで、典型的な悪循環が始まったのだという。
人間の歩き方というのは、とても微妙なもので、その人その人で独特な力の入れかた、力の配分のしかたがあり、どこか足の一ヶ所に問題ができると、それをかばうために、通常ではない力が違う場所にかかり、それがその箇所を傷める。そして、それをかばおうと無意識にまた違うところに力が入り、そこが悪くなる。

めったにないこんなところでは、こんな写真を撮ってみたくなる
まさに、そのとおりのことが、おこってしまっている。Erwinを過ぎてから、一時、少し雨が降ったが、天候はほぼ安定していて、空はすっきりと晴れ上がり、気温も上がってきた。気持ちのいい尾根歩きや草原歩きが続き、足に問題さえなければ、最高の気分で、口笛を吹きながら、太陽を背に浴びながら、心おおらかに、多くの人々にシェアーしたいほどに幸せな気分で歩いているはずだった。ひとつ楽になると、必ず違う場所が痛む。この連鎖が腹立たしくて、悔しくて、思わず涙がでそうになる。
それでも、まあまあ順調な歩きが続いている。8時間で到着するはずの行程を10時間かければ歩ける。無理はしないほうがいいので、うまくかばいながら、調整しながら距離をこなしている。なんとか、じょうずにやりくりしながら、やがてはその状態から脱出したいと、前向きに考えようにしている。
と、マイナーな書き出しになってしまったが、心は、そんなに深刻ではない。むしろ、やはり歩くことの豊かさ、大地と常に接触していることによりいや増す自然への愛おしさ、永遠とも思えるほどのアップダウンを繰り返すことによる季節往来の楽しさを十分とはいえないまでも、大いに満喫している。
その季節なのだが、あの雪が降る前日から一昨日まで、ほぼ2週間、寒気が居座り続け、完全に春が止まってしまった。緑のまったくなかったジョージア出発し、少しずつ春の訪れを感じつつ、その季節の推移を感じつつ歩いていたのが、あの日以来、新緑前線が標高を上げなくなってしまったのだ。確か、4月の10日を過ぎ、もうあと10日もすれば緑は標高1000メートルを越えてくるというようなことを思っていたのが、その後、まったくと言っていいほどに、止まってしまったのだ。
あれからほぼ20日以上はたっているのに、このあたりの新緑前線は、まだ標高1000メートルで足踏みしている。それどころか、すでに芽吹いていた木々の葉の多くが、雪と寒気によって萎れ、枯れ落ちてしまった。早春のあの可憐な花たちの多くも、打ちのめされてしまっていた。それでも、なんとか耐え忍んで春を待つ姿が、歩くぼくの眼には、痛々しくもたくましく見える。

季節が止まり、標高1200メートルでも、まだこんな風景だ
そしてようやく、一昨日あたりから、気温が上がり始め、春らしいうららかな陽射しと、心潤す春のそよ風とが戻ってきた。それにつれ、花たちも木々たちも、元気をとりもどし、昨日、今日と、森に春の甘い匂いも戻ってきた。そよ風に混じって、時々、サァッと強い風が吹く。すると山が鳴る。これを山の音というのか、風の音というのかと、考えながら歩く。突然、なぜだか、イメージはぜんぜん違うのだが、川端康成の「山の音」という小説をもう一度読み返したくなった。
太陽が森を照らすと、歩く気分も照らされる。山の音、風の囁き、森の香り、山の輝き、春の煌きの中を歩いていると、ぼく自身の心も緩んでくる。

標高が下がって、ぼくの好きなハナミズキが緑に映える
そして昨日の朝、いつものように6時半に起き、朝食を食べ、テントをたたみ、8時前に出発し、一時間もしないうち、ふと、昨夜久しぶりにちっちゃな鏡で見た自分の顔を思い出し、ちょうど座り心地いい倒木に座り、髭の手入れをした。ダマスカスの町まであと10キロほど、という場所だった。そうだ、あのみすぼらしい、汚い顔で町に下りたくないと、ふいに思ったのだ。今まで、町に下りるとき、そんなこと気にもしなかった。きっと、春の麗らかさが、そんな気持ちにさせたのだと思う。でも、そんな気持ちが嬉しかった。
アパラチアン・トレイルは、かなり厳しいトレイルだと、あらためて知る。むろん、過去に歩いたことのあるぼくは、そんなこと、百も承知だ。承知の上で、さらに納得する。たとえば、メキシコ国境からカナダ国境まで4200キロ続くPCT(パシフィック・クレスト・トレイル)と比べ、3500キロのアパラチアン・トレイルの方が、ずっときついという話を何人もから聞いた。昨年、そのPCTを全行程歩き、今回しばらくいっしょに歩いた清水さんも、同じようなことを言っていた。PCTでは、言葉では言い尽くすことができないほどの壮大な風景展開、日常から程遠い自然のスケールの大きさや意外さに驚く日々が続く。それに比べ、ATには、ほとんどそれがない。標高も低く、前半の900キロは、ほぼ森歩きが続く。風景の大きな展開は、めったになく、あっても、日常からそう遠くはない風景だ。人々が切り開き、生活している風景だ。しかも、ATは、ことごとくと言っていいほどにピークを越えさせるという過酷なトレイルだ。なんでこんなコブをわざわざ登らせるんだと文句をいいたくなる。それに比べ、PCTは山頂を避けて、迂回してつけられている。アップダウンの苦痛が少ないのだと言う。
むろん、PCTにはATにはない苦痛もある。水や食料補給。それにATほどに歩く人が多くないということからくる、孤独感という過酷さだ。
ただぼくは、恵まれている。アパラチアの自然が大好きなのだ。花や木々や苔や、そういったものたちで構成されている森が好きなのだ。それらの名前もけっこうたくさん知っている。アパラチア山脈の森が日本の森によく似ているということが、楽しくもある。なんだか日本の南アルプスや大峰山脈や秩父山系を歩いていると錯覚することすらある。それは、ある意味、つまらないことでもある。せっかくアメリカ大陸の反対側に来ているのに、日本の山と同じでは、確かにつまらないだろう。でも、植物や昆虫が好きならば、そこにあるそれらのものがどういうものか知っているならば、それは楽しいものなのだ。
しかも、アパラチア山脈、特に今歩いている南部にある、独特の文化と歴史にも、ぼくは強い興味を持っている。そういったことを、この森のなかを歩きながら、あれこれと考え、想像する。
多くのバックパッカーは、そういった楽しみ方を知らないようだ。ただ、ひたすら歩く。むろん、アパラチアという音を聞くと心が疼くと言う人々も、数多く歩く。彼らは、だからこそ、このトレイルを目指してやってくる。しかし、ぼくが接した若者たちの多くは、あまりそういったことに興味を持っていない。親しくなったバックパッカーにそういった話をすると、みな驚く。彼らが驚くことが、じつは、ぼくにとって意外なことだった。歩いてみて、歩く人を見て、アパラチアン・トレイルの印象は、少し変わってきた。そういったことは、またいずれ書くことにする。
きょうは、とりとめのない話になったので、とりとめのない、でも、ぼくの日常の写真を何枚かお見せしよう。
さきほどiBepalにも書いたが、いまこの原稿は、ダマスカスの隣のAbingtonという町のホテルで書いている。インターネット環境の問題から、今回もシャトルを頼んで、ここに来ている。今、夜中の2時半。いつもと同じで、また夜更かしの原稿書きだ。朝、ダマスカスに戻り、また歩き続けるのだが、4日後にまたダマスカスに戻ってくる。年に一度のTrail Festival があるからだ。そのレポートは、来週、またここで書くことにする。

テネシーの山村に一条の光射す

一日に一ヶ所ほど、こういったシェルターがあるが、ぼくは使わない

前を歩くバックパッカーのこんな風景に、思わず足を速め、だれだろうと確かめたくなったりする

時々、こんな気持ちのいいランチもする

ひとりぼっちだが、贅沢な時間だ
ブルーグラス・フェスティバル
前回ブログ更新してから、ずいぶんと時間がたってしまった。今、テネシー州のErwinという山間ののどかな町に下りて、これを書いている。久しぶりの高速インターネット環境だ。前回書いてから、天候に左右されて、予定をさらに2日遅れてここに到着した。途中、雪に見舞われ2日間テントに閉じ込められ、びしょびしょの雨が何日も降り続き、そういった天候は予測内にもかかわらず、やはり心身ともにずぶ濡れ状態の日々が続いた。風景もなにもない。ただひたすら歩く。結果、ここ数日、毎日のように一日30キロを越える歩きとなって、ようやくここにたどりついた。
ただ、iBepalでも書いたのだが、札幌在住で、一昨年ジョン・ミューア・トレイルを歩き、昨年、なんとパシフィック・クレスト・トレイル4200キロという、メキシコ国境からカナダ国境まで続くロングトレイルを5ヶ月で完全踏破した北海道の清水秀一さん(39)が、10日前にぼくに追いついたのだ。原稿を書くために何度も山を下りている間に、一週間後に出発した清水さんは、一日30キロから38キロを超える距離を歩き続けていたのだ。ぼくは基本的に一日8時間から9時間半ほどの労働なのだが、彼は12時間労働の日々が続く。清水さんのことはiBepalにいろいろ書いたので、お楽しみに。
ここErwinは、ぼくの好きな町だ。ここは3度ほど訪れた。周りを美しい山に囲まれたのどかな田園風景のなか、整然とした町並みが魅力的だ。教会が多く、伝統的なバーン(納屋)が緑のなかに溶け込んで、牧歌的な雰囲気をかもし出している。アパラチアン・トレイルはこの町のはずれを通過する。バックパッカーの多くは、この町で一日滞在し、シャワーを浴び、洗濯をし、栄養とこれからの食料補給をする。町の人々はATを歩くバックパッカーに好意的で、簡単にヒッチハイクもできる。ただ、バックパックを背負って歩いているだけで、停まってくれ、乗せてくれたりする。

こんな田園風景のカバーブリッジを渡ってブルーグラス会場へ
できれな、こんな町で数日間を過ごしたいと、だれしもが思う。というぼくは、じつは二日間滞在することになってしまった。またしても、予定外の停滞で、さらに遅れる。4日前、Hot Springs から送った食料を含む荷物が、届いていないのだ。食料はここで調達すればなんとかなるが、大事な資料とカメラの交換電池が入っているのだ。カメラは昨日、ほぼバッテリー切れの状況で、このまま出発すれば、向こう10日間ほど写真が撮れない。
ところでぼくは、なんとラッキーなのだろうか。またしても、これはトレイルマジックだ。
昨日(4月30日)、Erwinに下りたのが土曜日。期待はしていた。それは、アパラチアン・ミュージック。あるいは、マウンテン・ミュージックともいう。
南部アパラチア山脈に点々とある小さな町の多くが、週末になると伝統的なコンサートをする。お年寄りから子供までがジェネラルストアーやバーン(納屋)などに集まり、フィドル(バイオリン)、バンジョー、マンドリン、ダルシマーなどの楽器を持ち寄って演奏し、その曲にのって、人々がバック・ダンスというステップダンスを踊る。
アメリカには、ブルーグラスという確立された、ステキなジャンルがある。ビル・モンローやラルフ・スタンレー、マック・ワイズマンなど、知る人ぞ知るミュージシャンがいる。ぼくの大好きな素朴な田園的な音楽だ。ただ、白人中心の偏った音楽ジャンルでもある。
このブルーグラスの故郷が、ここ南部アパラチア山脈なのだ。ヨーロッパからの移民がアパラチア山脈に定住し、人々の仕事の合間の娯楽が、アパラチアン・ミュージック、マウンテンミュージックとして、今もここに残る音楽であり、その流れをくむのがブルーグラスなのだ。さらに遡れば、そのルーツはスコッティッシュ・アイリッシュと呼ばれる、スコットランド系アイルランド人の故郷へと通ずる音楽なのだ。この山間の音楽は、そのほかにも、じつは、カントリー、ブルースから、ジャズまで、アメリカの音楽ジャンルに、かなりの影響を与えているのだ。
そのブルーグラスのフェスティバルが、しかも、年に一回の大きなフェスティバルが、ファーム・ミュージアムという伝統的な農場を保存した会場で、ぼくがこうして下りてきたその日に行われたのだ。
ぼくがアパラチアン・トレイルに興味を持ったかなり大きな要素として、アパラチア山脈に残る伝統文化と歴史とがある。ぼくにとってATは、ただ自然だけを目的としたトレイルではないのだ。なかでも、ぼくが最も興味を持っているのがこの音楽文化だ。そのフェスティバルに、まさか歩いているときに参加できるなんて、ぼくはなんとラッキーなのだろうか。

瓢箪はこのあたりの伝統的な作物だ

納屋という会場が、ブルーグラスの雰囲気をよりかもし出してくれる

この少年のBuck dance は地元のチャンピオンだという
ブルーグラスの音楽を楽しくさせるのが、Buck dance と呼ばれるステップダンスだ。Buckとは雄シカのことだ。独特のステップで人々が踊るその姿は、外見単純、素朴なようで、人々の生活の喜怒哀楽が現れていて、感動的なステップダンスなのだ。何度か、他の町のジャンボリーにも参加して、こういった雰囲気の虜になったぼくは、そのステップの基本を知りたかった。それが、今回できた。
町に下りてきた数人のバックパッカーも、このフェスティバルに参加し、そのステップを教わったが、You got it!! (そうだ、その調子!)と言われたのはぼくだけだった。やった!
というわけで、きょうは、そのフェスティバルの写真をお届けした。
この後、おそらく10日以上、インターネット環境が整わないため、ブログ更新は難しいかもしれないが、どうぞこれからも、ご期待を!
Keep in touch
Jack-a-roo
運命の出会い
予定を変更して、今、Newportという町にいる。グレート・スモーキー・マウンテン国立公園をきょう、無事に通過した。全長約107キロを5日で超えた。きょうは、今までで最高距離、約29キロを9時間かけて歩いた。今までのトータル距離も380キロを越えた。
一日に歩く距離を自ら競っているわけではないのだが、じつは、かなりの遅れが出ている。先ほどiBepalにも書いたのだが、このモバイルを持ち込んで仕事をしながらの歩きは、予想を遥かに超えてたいへんな作業なのだ。むろん、歩くバックパッカーがみなびっくりするように、その重さもさることながら、あまりにもやることが、日々多すぎる。夜、テントのなかでやる作業。町に下りたときにやる作業。寝る時間がかなり制限されている。だから、歩くとき、できるだけ距離を稼ごうとする。

まさに、グレート・スモーキー
その結果か、ついに靴づれを起こしてしまった。昔は無知からの靴づれがたびたびあったのだが、最近は、ほとんどなかった。今回も、300キロ近くまではなんでもなかった。普通、歩き始め、靴になじめないときに靴づれは起こすもの。だから、もうだいじょじょうぶだろうと安心していたら、なんとグレートスモーキーを登り始めるころから違和感が始まった。すぐにケアーして歩いたのだが、合計3ヶ所やられてしまった。そして、よくありがちなことなのだが、それを無意識ながらも、かばおうとして歩いている結果、膝の痛みが両足に出てしまった。膝の問題は5年ほど前から抱えていたのだが、今回、ここまで歩いたら、かなり膝を支える筋肉が発達してきているだろうから、もうだいじょうぶと思っていた。ぼくの膝には、ほとんど軟骨がないのだ。「歩きすぎ」、と医者にしかられるのだが、職業病だ。しかたがない。それを支えているのが、ぼくの筋肉なのだ。
きょう、仕事のためにニューポートに来た。国立公園を出て4キロほどのところにあるファームのオーナーに頼んで、30キロほどのこの町まで送迎してもらう約束をしたのだ。
ここのホテルには、高速インターネットの環境があるというのが、最大の理由なのだが、
実は、足を休ませるという理由もあった。きょう、ここに泊まり、明日、そのファームのキャビンに泊まり、2泊の休養だ。
そして、もうひとつの理由は、雷雨。今晩、明日と雷雨が続く。きょうも午後になってから遠くで、空を揺るがす轟音が、連続して起こっていた。黒い雲が走り、ぼくの歩きと競争だった。雨を恐れていてはアパラチアン・トレイルは歩けないが、できれば避けたいのが正直なところだ。できるときは、避ける。だめならば、諦める。じつは、歩き始める明後日も、たぶん雨だ。
ところで、以前にもトレイルエンジェルの話はした。今回、これまでにも、何人ものトレイルエンジェルのお世話になった。その中でも最高の贈り物が、一昨日あった。
前回ブログを更新したのが、ガトリンバーグだった。そこからトレイルまで車で40分かかる。ヒッチハイクで降りてきたのだが、これが、なかなかたいへん。うまくいくときもあるし、なかなかつかまらない時もある。なにしろ、山の汚い格好をした臭そうな男など、普通、乗せたくはないだろう。
その朝、ヒッチハイクでトレイルに戻ろうと、道端で親指を立てながら立っていると、逆方向から来た車が、ユーターンしてきた。そして停まると、「ニューファウンド・ギャップでしょ?」と、にこにこしながら青年が降りてきた。ラッキーと思い、お礼を言い、車に乗ると、「実は、ぼくもスルーハイカーなんだよ」と言う。
2000年にアパラチアン・トレイルをスルーハイクしたのだそうだ。そして、さらに話をするうちに、二人とも興奮状態になってしまった。彼は、じつは国立公園レンジャーだったのだ。彼の勤務先はこの公園ではなく、ブルーリッジ・パークウエイだ。ぼくはなんどもそこを通っている。アメリカの国立公園レンジャーはぼくの憧れの職業。今までにも、仕事で何人にもインタビューしてきたし、ジョン・ミューア・トレイルのレンジャーステーションで何人ものレンジャーと親しくなった。
ぼくがジョン・ミューアの本を出している話などをすると、彼の興奮は高まった。車が蛇行したほどだ。なにしろ、アメリカの国立公園の産みの親がジョン・ミューアなのだから。
2000年に彼が歩いたときのトレイルネームを、教えてくれた。「じつは、ワサビ!」。
彼は寿司が好きで、日本贔屓でもあったのだ。40分間、ふたりは大声を出しながらしゃべりまくった。
ぼくの英語は、ぼく自身劣等感を持っているほど、たいしたことがないと思っている。とくにヒアリングが苦手だ。にもかかわらず、彼との会話は流暢に進む。彼のしゃべりもよくわかる。
いつものことなのだが、ぼく自身の得意分野だと、ぼくの英語も割りと流暢だ。一般的には難しい単語が頻繁に出ているのだが、互いの専門分野だから、問題はない。
ニューファウンド・ギャップに着くと、「いっしょに暫く歩いても、いい?」と、言ってきた。彼は、今、休暇中で、毎日、デイハイクとフライフィッシングをこの国立公園で楽しんでいるのだ。それはそうだろう。勤務中に、国の役人がプライベートでヒッチハイクの人を乗せるわけがない。「ぼくもフライフィッシングをするんだよ。とくにシエラネバダを歩くときは、必ずロッドを持っていく」と話すと、さらに彼のトーンがあがる。
歩きながらも、ふたりの会話はとどまることを知らない。周りの木や花や鳥の話。その木々、とくに立ち枯れがひどいフレージャーモミやヘムロック、ほぼ絶滅してしまったチェストナット(アメリカ栗の木)の話になると、会話は深まる。ぼく自身、今回のテーマでもあるからだ。フライフィッシングから、アメリカのトラウトの生態、さらには、互いのプライベートにまで話が及び(彼の彼女もレンジャーなのだそうだ)、ついに、ぼくが今問題視しているアメリカの政治状況の話を向けると、彼は、まったくぼくに同感してくれる。
立ち枯れのひどいフレージャーモミ

稜線の岩に立つ
.jpg)
彼が、パークレンジャーのアレックス(ワサビ)
きれいな花があると、図鑑を持っている彼は、それと照らし合わせ、匂いをかぎ、知っている花の名前は教えてくれる。
そうこうしながら6キロを2時間かけて歩いた。ぼくは、うれしくて、このままずっといっしょに歩きたかった。なにしろ、彼はインタープリター(自然解説者)のプロ中のプロ。
でも、そういうわけにはいかない。ぼくはその日、さらに20キロ近くは歩かなければならないのだ。別れが、名残惜しかった。互いのメールアドレスを交換し、これから、ずっと連絡を取り合おうと約束した。
「これから戻って、夜までフライを振るよ」、と言いながら、彼はもどっていった。ぼくにとって、ぼくが思いいれているトレイルに関して、こういう運命的な出会いは、いくつもある。ジョン・ミューア・トレイルでもそうだったし、ジョン・ミューア・トレイルとアパラチアン・トレイルを絡めた運命的出会いもある。ぼくは、こういった幸運、トレイルマジック、あるいはトレイルエンジェルによって、かなりの部分支えられているのだ。
グレート・スモーキー・マウンテン国立公園を歩いています
歩き続けている。きょうすでに330キロを超えた。ジョン・ミューア・トレイルの総距離とほぼ同じだ。それを実質2週間で歩いたことになる。とは言え、まだ全体の10分の1。グレートスモーキー・マウンテン国立公園を縦走中だ。東西に約115キロある国立公園のその背骨の部分を歩いている。その稜線はノースカロライナとテネシーとの州境にあたり、ぼくの右足がノースカロライナで左足がテネシーを歩いている。そんなこと、日本の山だったらいくらでもある。ぼくがかかわっていて、今年の夏オープンする予定の信越トレイルだって長野と新潟県境のトレイルだ。でも、日本の山を歩いていて、それを知っていても、そこまで意識したことはない。やはり、アメリカという国の大きさと、州自体の大きさが、ぼくの意識の底にあるからだろう。ノースカロライナ側に両足を入れてみたり、テネシーで休んでみたり。そんなことを楽しみながら歩いている。

朝靄のアパラチアン・トレイル
そこもすでに半分はこえた。そして、食料調達の予定に入っていない、しかし、一大観光地として有名なGatlinburgという街にヒッチハイクで下りることにした。この街は、ぼくも以前に何度か訪れているが、とにかくアメリカっぽい俗悪な街だ。治安が悪いとかいうのではないけれど、派手派手しいアトラクションや食べ物やが立ち並ぶ小さな街なのだ。でも、そこには数十のホテルがあり、それがぼくの目的だ。
じつは、いままでのブログをご覧になっておわかりのように、まともな写真がアップされていなかったことが、歩いていながら、ずっと気になっていたのだ。
というのも、いままで降りたいくつかの町には、まともなホテルやモーテルがなく、小さなホステルのようなところに泊まると、そこにはプライベートな部屋はなく、電話も共用なのだ。集中して原稿も書けず、ましてや共用の電話に遠慮しながらモジュラーをつないで、アップした。電話待ちをしている他の客がいるところで、時間のかかるブログの更新なんか、できなかった。同じように、iBepalにもまともに原稿が書けないでいた。ただ、そちらのほうは2本、原稿が届いているはずなので、近々アップされると思う。
稜線上は、まだ緑がない。冬色の世界だ。しかし、きょうのように、町へ降りてくると、そこは、初々しい新緑が満ち溢れた世界だ。そして、アメリカ東南部で特徴的なハナミズキの真っ白な花が緑に混じって咲いている姿は、言葉には言い尽くせないほどに美しい。
そういう世界を実際に歩けるのは、もうあと一週間か10日先だろうか。
でも、枯野を歩くうち、次々に春を告げる花が路傍に咲き始めている。はじめBlood Rootだけだった花が、今では、さまざなま種類や色が歩くぼくの眼を楽しませてくれている。
特に、この国立公園の稜線に登りついたときの感動は、どうやったらお伝えできるのか、わからない。
きょうは、そういった花々の写真のアンソロジーをお見せしよう。とは言え、このインターネットもアナログの世界なので、あまりたくさん、というわけにはいかない。
それでは、またお伝えできるときまで、
Keep going!!

まだまだ、林床はこんな感じ

blood roots
rue-anemone
sweet white trillium

spring beauty

そのspring beauty のカーペットが、今、国立公園の稜線に30キロにわたって続いているのです
4月7日ヘレンより
歩き始めて4日め。ヘレンというへんてこな町におりてきた。普通の人だと、きっと可愛い、とか、ステキとかいう感じのこぎれいな町。スイスをイメージして作られた観光地。でも、臭くて汚いぼくたちにとっては、アナザー・ワールド。居心地が悪くて、落ち着けない。
この4日間、どんなだったかは、iBepal に書いたので、そちらをどうぞ。
アパラチアン・トレイルを歩くバックパッかーは、ほぼ、全員がトレイルネームを持っている。ぼくのトレイルネームは、ミシガンに住む友人がつけてくれた「Whistling Jack Rabbit」だったのが、ジョーが、「それは呼ぶのに長すぎるから、Jack-a-roo がいい」と、ふたつめのネーミングをくれた。意味はたいしてないのだけれど、音がいいし、Jack Rabbit を短縮したのだと言えばいいと、ジョー。
それを使って、会うバックパッカーに自己紹介すると、これが、とても評判がいい。「やー、ジャッカー・ルー!と遠くのほうから声をかけてくる。テントを張っていると、早いねぇ、ジャッカー・ルーと、送れてやってきた奴が近づいてくる。
おもしろいトレイルネームがいろいろある。たとえば、テキサスからの二人組は、Lefter & Righter。右と左だ。 ペンシルバニアからのおじさんは、The flying Pig。空飛ぶ豚。シカゴからの二人組は、Dirty Harry とStink foot。汚いひげ面と臭い足。まだまだいろいろ面白いのがあるけれど、きょうは、ちょっと時間がないので、このへんで。

Blood Mountain 山頂より。南部アパラチアンは、こんな風景が2ヶ月ほど続く
3日スタート!
食料のほか、重要な書類まで紛失。時間がたつにつれ、ショックは悔しさと怒りに変わってきた。その症状がひどくなり、ほとんど一睡もできない夜もあった。それでも、気を取り直し、気持ちを前向きにきりかえ、食糧調達をし、昨日、ようやく20を越えるパッケージ詰めが終了、パッキングもすんだ。想定どおり機材一式を含めて25キロ以内に抑えることができた。ただ、後半(7月以降)の食料は、時間がないなか、かなり大雑把に集めたことによって、ばらつきがある上、相当量、足りない。それらは、なんとか時間を作って、それぞれのトレイルアウト先で調達することにする。

Adams Family
Adams house. Joe built this house in the Appalachia mountain slope.
セクション別に用意していたガイド&マップセットも、その80パーセントが紛失しまっていた。これに関しても、ふたつのセクションを除いて、なんとかそろえることができた。足りないものについては、ジョーが急いでインターネットで買い、食料といっしょに、必要なセクションに送ってくれることになった。
天気は、ひどい。アトランタに到着して以来、一週間になるのだが、晴れたのは2日間だけ。雷雨が4日もあり、そんな天候のなかを歩くのかと思うと、ちょっと腰がひける。当初の1日に出発していたら、恐ろしいほどの雷と強雨のなかを歩いていたことになり、延期してよかったんだと、思った。ただ、甘くはない。なにしろ、アパラチア南部は雨が多いところなのだ。
ジョーの家族を紹介しよう。ファミリーネームはアダムス。そう、Adams family だ。
ジョーは5人家族。Family name は Adams 。そう、Adams Family なのだ。Joseph(Joe), 妻のSayuri, 長女 Salah(星良セーラ6歳), Etowah(英登和エト5歳, Selu(世瑠ルー4歳)。素敵な家族だ。JoeがAETのプログラムで交換教師として1990年から6年ほど、北海道、千葉、山梨に住んだ。そのときの関係で、小百合さんと結婚。そして、このDahlonegaに住む。町から車で10分ほどの山中のスロープに自ら家を建て、今はフリーのカーペンターとして、生計を立てている。ワイルドで質素な作りの家で、まだまだこれから手を加える夢を持っている。小百合さんに言わせると、「外での仕事(大工仕事)は一生懸命やるが、なかなか自分の家に手をつけてくれない」。
子供たちは笑顔がとても可愛い。素直に育ち、しかもどの子も好奇心旺盛で、表現力が豊かだ。積極的にお母さんの仕事を手伝う。
Joeのことはご存知の方もいるはず。じつは、2年ほど前、NHKのBSで放送されたトレッキング女優シリーズで、本上まなみがアパラチアン・トレイル最北端を歩いたときのガイド役として登場している。ぼくが彼と知り合ったのは、その関係から。番組の製作会社から、アパラチアン・トレイルに関するアドヴァイスを依頼されたのがきっかけで、後日彼がわが家に遊びに来たことがあるのだ。
アパラチアン・トレイルを歩こうと心に決めていたぼくにとって、彼の存在は、とても大きなものになった。彼らは、ぼくのトレイルエンジェルなのだ。
こういう人々のことを、アパラチアン・トレイルを歩くバックパッカーたちはそう呼ぶ。かつて、何度かセクションを歩いたぼくも、彼以外のトレイルエンジェルに何度となく助けられた。歩く過程のなかで、おそらく、さまざまなトレイルエンジェルのストーリーがあるはずだ。ぼく自身、それを楽しみにしている。
いきなり、トレイル・デビルに遭う
3月27日。アトランタに到着。迎えにきてもらった友人のジョーとともに、彼の家がある、Dahlonega に入る。そこは、ジョージア州にあるアパラチアン・トレイルのスタート地点近くのゲートタウン。こんな田舎のスタート地点に友人がいるなんて、とてもラッキーだし、ぼくの出発準備を手伝ってくれる彼らは、まさにトレイルエンジェルでもある。
Dahlonega のダウンタウン。アメリカ最初のゴールドラッシュの町
が、なんたることだろう。日本にいるとき、もっとも心配していた事態が、こちらに来て、はやくもおきてしまった。3月10日に日本からジョー宛に送った食料その他を入れたダンボール3箱のうち、1箱がまだ届いていないのだ。遅くとも20日には届くはずなのだが、食料輸入に厳しいアメリカに60キロほどの重さの食料を送っているわけだから、間違いなくチェックはされるだろうと、想定はしていた。
しかし、届いていたその2箱とも、送った時のダンボールとは違う箱に入れられ、しかも、中身が半分ほどしかない。まだ届いていない箱分もふくめると、全体の5分の1ほどしかないのだ。さらに、同梱しておいたセクション別のガイドブック&マップセットのうち5セット、10冊のメモ帳のうち9冊も届いていない。残りのボックスが届いたとしても、これらの数字を埋めるだけのものが入っていることは、まず考えられない。
セキュリティーの厳しさを誇るくせに、アメリカという国の杜撰さにまたしてもやられてしまった。かつても、こういう被害にあっているだけに、やっぱり、またしても、という気持ちが強い。
ま、それでも、沈んでいてもしかたがない。紛失してまった分は、こちらで調達するしかない。膨大な数の食料を集めるだけでもたいへんな時間とお金がかかる。その上、それを仕分けして20箇所を超えるポストオフィスに送る作業もある。
途中、なんどもトレイルアウトして下りる麓の町でそれらを調達する時間がないぼくには、やはり出発前になんとか準備するしかない。アメリカに住むバックパッカーは、前もって送る分と、行程が進むたびに家族や友人に送ってもらったりする。が、外国人の場合は、自分で調達し、前もって送るか、その都度、町で買出しをするという方法しかないのだ。
出発前に、このDahlonegaで4日間ほど、かなりすべきことがあったぼくなのだが、それどころの騒ぎではなくなってしまった。4月1日の出発日を延ばすことも、今、検討している。日本からの延長で、睡眠不足のままスタート日を迎えることになりそうだ。
いきなりの暗いストーリー展開で、アパラチアン・トレイルのジャーナルが始まってしまった。
アパラチアン・トレイルへの挑戦、4月1日スタート!

Taking a rest on The Appalachian Trail in Virginia(2002)
アパラチアン・トレイル3500キロ踏破の旅。出発までのカウントダウンがいよいよ始まりました。
ジョージア州スプリンガー・マウンテンを4月1日にスタートします。
スタートに先立ち、かねてから仲間たちから希望されていたウェブ・サイトを立ち上げることにしました。
アパラチアンへの思いを胸に描いてから、すでに30年近くたったでしょうか。ベトナム戦争をきっかけに、若者たちが起こしていった新しい価値観のなかから生まれたさまざまな文化や現象を紹介したアメリカのグラフ誌のあるページに、アパラチアン・トレイルを歩く若者のグループを紹介した、一枚の写真がありました。どこにでもあるなんの変哲もないモノクロームのその写真を見たとき、なにかがぼくのなかで動いたのです。
10年以上もあたため育んできたアパラチアン・トレイル3500キロ踏破という夢をはじめようとする今、そのきっかけが果たして何だったのかを思い起こしてみたとき、たどりついたのが、その一枚のモノクローム写真だったのです。
7人ほどの学生と思える若者たちがそれぞれ、薄汚れたTシャツに半ズボンという姿で、アウターフレームのバックパックを背負って、カメラに向かって横一列に並んで微笑んでいます。ある者は履き古した登山靴を履き、ある者はこれもぼろぼろのワークブーツを履き、ある者は裸足でした。3500キロというとてつもない距離のトレイルがあること自体が、ぼくの好奇心を激しくそそったのですが、それ以上に、カメラに向かって微笑む、まだあどけなさが残る屈託のない笑顔たちに共感するなにかを、そのときぼくは、確かに感じたのです。
その夢を果たすべく、何度か取材に訪れました。2002年には800キロを歩きました。しかし、その年の挑戦は、残念ながら、頓挫。ここ数年、体調を崩し、思いは果たせぬまま、悶々と時を過ごしました。
そしてようやく今、その思いを果たす時を迎えようとしています。

Appalachian Mountains in Georgia
アメリカ合衆国東部と中西部を隔てる長大なアパラチア山脈は、南はアラバマ州から、北はメイン州を越え、さらにはるかカナダのラブラドール地方にまで延びて、横たわっています。その山中、ジョージア州スプリンガー・マウンテンからメイン州マウント・カタディンまで、延々14の州を貫いて、アパラチアン・トレイルは、続きます。ここはバックパッカー憬れの、そして究極のトレイルなのです。
全長3500キロ。とてつもない距離。はるかな距離。その距離が、まずぼくを魅了してきました。その距離のとてつもなさは、たとえば毎日25キロを、ひと月に25日間歩いても、ほぼ6ヶ月かかるのです。食料、テントなど野外生活一式20キロ以上のバックパックを背負ってです。その距離を一度に歩ききっ
たバックパッカーは、「Thru-hiker」、あるいは「2000miler」と呼ばれ、アパラチアン・トレイル協議会から称号のワッペンを授与されます。バックパッカーの最高の栄誉です。ぼくは、それを得たかったのです。ワッペンを得るために歩くことに、子供のような単純な輝きを感じてきました。
10年前、カリフォルニア州シェラネバダ山脈中枢部を貫くジョン・ミューア・トレイル340キロを踏破したぼくの、次なる目標がアパラチアン・トレイルでした。アパラチアン・トレイルの魅力は、ジョン・ミューアの魅力とは一味違っています。むろんそこには、壮大な自然と、その自然を守るための優れた保護システムとがあります。それもぼくのテーマではあります。しかし、ここにあるのは、それだけではないのです。
ヨーロッパ系アメリカ人の多くが、「アパラチア」という音を聞くだけで、胸が疼き、心に響くものがあるのだといいます。山麓一帯には、さまざまな歴史、文化の魅力が散りばめられています。17世紀以降、ヨーロッパから続々とやってきた移民たちの、昔のままの暮らしと思いとが、未だこの山麓に顕在あるいは潜在しています。本家ヨーロッパですでに消えてしまった古きヨーロッパの伝統が、この山麓に脈々と今に生きています。アパラチア山脈は、言ってみれば、アメリカの歴史、文化の吹き溜まりなのです。自然の魅力とともに、人種、宗教、政治も含めた社会科学的、人文科学的な魅力がアパラチアン・トレイルにはあるのです。
このアパラチア山脈を貫く一本のロングトレイルを歩くことによって触れる、さまざまな人々の個々の顔と、彼らが生きるアメリカという国の顔とを、そして、その意味するところを、ぼく独自の眼をとおして検証しようと思っています。
そうすることによって、今のアメリカの姿が見えてきます。そしてもちろん、バックパッキングという遊びの魅力を存分に堪能し、歩くということの楽しさを縦横無尽に書き、お伝えしようと考えています。

